デジタル大辞泉 「将棋」の意味・読み・例文・類語
しょう‐ぎ〔シヤウ‐〕【将棋/将×棊】
[補説]将棋をすることを「将棋を指す」と言う。囲碁は、「(囲)碁を打つ」と言う。
将棋盤を挟み2人の競技者(対局者)がルールに基づいて勝ち負けを競う室内遊戯の一つ。相手の玉(ぎょく)(王)を早く擒(とりこ)(詰める)にしたものを勝ちとする。日本以外にもチェス(西洋将棋)、中国象棋(しょうぎ)、朝鮮将棋など各国に将棋がある。
[山本亨介 2019年3月20日]
将棋の誕生は文献のうえでは不詳とされている。類似の西洋将棋はインドにおこり、軍隊を構成する象、馬、戦車、歩兵の四つを駒(こま)としてさいころを用いて遊んだのが将棋の最初の形態であったというのが通説になっている。その発生期を4000年から5000年前と推定し、4世紀ごろペルシア(イラン)に渡り、チャトランガという名称で知られるようになったといわれる。チャトランガが西洋将棋の原型となり、シルク・ロードを経由して中国に伝わって中国象棋となり、日本に伝わって日本将棋になった。中国から日本に輸入されたのは8世紀ごろ、遣唐使として入唐(にっとう)した吉備真備(きびのまきび)が持ち帰ったと伝えられたが、確証はなく、それ以前に伝えられたと推定する説が有力である。
近年、日本の各地で遺跡の発掘作業が積極的に行われ、将棋駒が数多く出土した。最古の駒は奈良市の興福寺(こうふくじ)旧境内井戸状遺構から、平安時代前期(11世紀なかば)の「天喜六年」(1058)と書かれた木簡とともに発掘され、木片に墨書されたもの。「玉将」3点、「金将」4点、「銀将」「桂馬」各1点、「歩兵」6点、不明1点の計16点で「王将」はない。興味深いのは鎌倉市の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の境内から出土した中将棋の駒で、13世紀末から14世紀の駒と推定される。これらの出土駒によって、すでに10世紀以前から日本将棋の駒が現行のように五角形になっていたことが判明した。
世界の将棋は、現行の駒数40枚の日本将棋を除いて、すべて駒は「取り捨て」のルールである。「再使用」のルールは現行の日本将棋だけで、このために世界中で類のない、内容の深い、おもしろいゲームになっている。
日本の古い将棋のことは『二中歴(にちゅうれき)』に、平安時代に将棋(駒数36枚)と大将棋(駒数68枚)があったと書かれてあるが、不詳である。さらに後代の本には、小象棋(しょうしょうぎ)(縦横各9目・駒46枚)、中象棋(縦横各12目・駒92枚)、大象棋(縦横各15目・駒130枚)、大々象棋(縦横各17目・駒192枚)、摩訶(まか)大々象棋(縦横各19目・駒192枚)、泰(たい)象棋(縦横各25目・駒354枚)と書かれているが、実際にゲームが行われたのは、大・中・小の3種類の象棋だけであったと推定される。
大将棋については、保元(ほうげん)の乱の発頭人である左大臣藤原頼長(よりなが)の日記『台記(だいき)』の康治(こうじ)元年(1142)9月12日の条に、頼長が崇徳(すとく)上皇の御前で、師仲朝臣(もろなかあそん)(源師仲(1115―1172))と大将棋を指して負けたことが記載されていた。鎌倉時代になると、藤原定家(ていか)の日記『明月記』にも将棋の記述がみえ、室町時代の『花営(かえい)三代記』には、宮中や将軍家でも盛んに将棋が行われたことが記載されている。『花営三代記』の記述は、中将棋であることが明らかである。
下って、後崇光(ごすこう)院(貞成(さだふさ)親王(1372―1456))の『看聞御記(かんもんぎょき)』の永享(えいきょう)7年(1435)8月22日に、将軍足利義教(あしかがよしのり)と関白二条持基(もちもと)(1390―1445)とが小象棋を指して関白が二番負けたという記述がみえ、現行将棋の母体となる小象棋が誕生していたことがわかる。これらの史料から、駒の「再使用」のルールは室町時代に誕生したと推定される。さらに京都市の鳥羽(とば)離宮跡から出土した駒は13世紀後半から14世紀中期のもので、この出土駒によっても室町時代に新ルールの現行将棋が誕生していたことを知ることができる。
安土(あづち)・桃山時代になると、武将たちが好んで将棋を指したことが記録され、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は将棋師に禄(ろく)を与えて保護奨励した。松平家忠(いえただ)の『家忠日記』の天正(てんしょう)15年(1587)2月下旬の条には、将棋の駒組み図の書き込みがあり、1607年(慶長12)には、大橋宗桂(そうけい)と本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)(1558―1623)との対局譜(対局の記録)が残されているが、これが現存する最古の棋譜である。
1612年(慶長17)宗桂は家康から50石五人扶持(ぶち)を賜り、のち、算砂が兼任していた将棋所(しょうぎどころ)(名人の別称)を譲られて1世名人となった。1634年(寛永11)1世名人宗桂が没し、その子大橋宗古(そうこ)(1576―1654)が2世名人を継いだ。その翌1635年、将棋家は大橋本家、同分家、伊藤家の3家となり、江戸幕府から将棋役(やく)として改めて20石を賜り、将棋家の世襲制が確立した。1636年現行のルールや禁じ手が成文化され、1662年(寛文2)には寺社奉行(ぶぎょう)の支配に属することになった。将棋所は将棋三家から選ばれ、将棋三家の者は毎年11月17日、江戸城の黒書院(くろしょいん)で将軍家に対局譜を披露する「御城(おしろ)将棋」の行事を務めた。この行事は1861年(文久1)まで続き、将棋所は、1843年(天保14)10世名人伊藤宗看(そうかん)が死んだあとは空位のまま明治の時代を迎えた。
明治時代は将棋界の受難期で、一部の将棋指(さ)しは賭(かけ)将棋にふけって世間の非難を浴びたが、旧将棋家の人々は自力で再建に立ち上がり、将棋会所(かいしょ)を設けて普及に努力した。1879年(明治12)10月、旧将棋家の伊藤宗印(そういん)(1826―1893)が11世名人を継ぎ、さらに2年後には『将棋新報』を発行して再建を軌道にのせた。1893年に宗印が没し、1898年には小野五平(1831―1921)が12世名人を襲位した。1921年(大正10)に小野が没し、関根金次郎が13世名人を襲位した。これに不満を抱く阪田三吉がかってに大阪で名人を唱え、将棋界は各派に分かれて対立したが、1924年、各派の対立を解消して東京将棋連盟が結成された。
1935年(昭和10)将棋界は、従来の終身名人制を廃して実力によって名人を決める「実力名人制」の採用に踏み切った。将棋史上で画期的なできごとであり、新しい実力名人を選ぶためにリーグ戦を開始し、第1期の実力名人は関根門下の木村義雄(よしお)が獲得した。こうして隆盛をたどる将棋界は第二次世界大戦で棋戦が中断され、苦難のなかで終戦を迎えたが、翌1946年(昭和21)には早くも再建に立ち上がった。時の名人木村義雄の発案で、順位戦の新制度を採用した。所属棋士をA・B・Cに分けてランキングを決め、A級第1位を名人戦の挑戦者とし、名人位も1期を1年(戦前は2年)とするなどの大改革であった。この順位戦という新しい制度は全棋士を奮い立たせ、戦後の将棋界は将棋史上に例をみない黄金時代を築くことになった。
[山本亨介 2019年3月20日]
1949年(昭和24)、日本将棋連盟は社団法人の認可を受けて組織が確立、おもな新聞社、放送局、週刊誌と棋戦の契約を結んで財政基盤も強化されて、発展を遂げた。とくに次の八大棋戦を公式タイトル戦とよび、優勝者はタイトル保持者として優遇される。(1)名人戦(名人を決める)、(2)竜王戦(竜王を決める)、(3)王将戦(王将を決める)、(4)王位戦(王位を決める)、(5)棋聖戦(棋聖を決める)、(6)棋王戦(棋王を決める)、(7)王座戦(王座を決める)、(8)叡王(えいおう)戦(叡王を決める)。
タイトル戦に匹敵する大型棋戦に全日本プロトーナメントがあったが、2001年(平成13)から朝日オープン将棋選手権に変わり、さらに2007年からは朝日杯将棋オープン戦に衣替えした。
1951年に始まったラジオによるNHK杯戦が1962年にテレビ放送に切り替わり、画面で専門棋士の対局を見せる新しい道を開拓した。
最高棋戦の名人戦は第二次世界大戦前・後を通じて木村義雄が名人位をほぼ独占したが、1952年大山康晴(やすはる)が木村を倒して実力制3人目の名人になった。名人5期以上は永世名人の規定により、木村は引退して14世名人を襲位した。大山は通算18期の名人位保持の記録をつくり、1976年、現役のまま15世名人を名のる。そのタイトル獲得は計80期に達し、大山時代を築いた。
1972年、中原誠(まこと)が大山を下して24歳で名人位に就き、1983年には21歳の谷川浩司(たにがわこうじ)(1962― )が加藤一二三(かとうひふみ)(1940― )名人を破って史上最年少の名人になった。その後、名人通算15期の中原は16世名人の、通算5期の谷川は17世名人の資格を獲得し、次いで森内俊之(1970― )、羽生義治(はぶよしはる)(1970― )がそれぞれ18世、19世名人の資格を得た。
1988年、十段戦が竜王戦に生まれ変わり、名人戦と肩を並べる最高棋戦になった。初代竜王は島朗(あきら)(1963― )。翌1989年(平成1)、19歳の羽生善治が島に勝って竜王位に就いた。羽生は1996年、谷川から王将位を奪い、当時の全タイトルを制して史上初の七冠王になった。
女流プロ名人位戦を皮切りに女流棋戦も女流王将戦、女流王位戦、倉敷藤花(くらしきとうか)戦と増え続け、2000年(平成12)、清水市代(いちよ)(1969― )が女流最高の6段に昇った。
将棋戦術も飛躍的な進歩を遂げ、新手法も次々に生まれた。第二次世界大戦後、「腰掛銀(こしかけぎん)戦法」が流行し、続いて古くからあった「矢倉戦法」「振飛車(ふりびしゃ)戦法」が装いも新たによみがえって主流を占めた。さらに戦前はなかった「縦(たて)歩取り戦法」「穴熊(あなぐま)戦法」が台頭し、「横歩取り戦法」や「四間飛車(しけんびしゃ)戦法」にも画期的な指し方が現れ、高度の技術が駆使されるに至った。これにつれて将棋関係本の出版も活発になり、将棋ブームを形づくった。
アマチュア棋界も年ごとに発展した。小・中・高校に将棋クラブが誕生し、将棋を正課に採り入れる高校も出てきた。「高校選手権戦」「高校竜王戦」「中学生名人戦」「小学生名人戦」も生まれた。第二次世界大戦前から続く「大学将棋」「全日本アマ名人戦」のほか、「アマ王将位戦」「アマ竜王戦」「朝日アマ名人戦」「日本将棋連盟全国支部対抗戦」「職域団体対抗戦」も行われている。
将棋を愛好する女性も急増し、「女流アマ名人戦」などを経て女流プロ棋士を目ざす女性も多い。
全国の将棋ファンは1000万人といわれ、国内に結成された日本将棋連盟の支部は約700、会員は2万人近くに達している。海外への普及も著しく、ニューヨーク、ロンドン、パリ、モスクワ、上海(シャンハイ)、バンコクなど約50の将棋連盟支部がある。
コンピュータの発達、普及とともに、コンピュータで将棋を楽しむファンが急増。コンピュータの棋力がプロ棋士に追いつき、追い越したことが話題になっている。
[山本亨介・田辺忠幸 2019年3月20日]
将棋は2人の競技者(先手側と後手側)が、それぞれ働きの異なる8種類、計40枚の駒をルールに従って交互に指し(動かし)、最終的に相手の玉(王)を詰めたほうが勝ちとなる。
[山本亨介・原田泰夫・田辺忠幸 2019年3月20日]
駒の名称と略称は次のとおり。玉将(ぎょくしょう)(玉)または王将(おうしょう)(王)、飛車(ひしゃ)(飛)、角行(かくぎょう)(角)、金将(金)、銀将(銀)、桂馬(けいま)(桂)、香車(きょうしゃ)(香)、歩兵(ふひょう)(歩)の8種類で、玉(王)と金以外の駒は、敵陣(3段目以内)に入るかあるいは敵陣内で動くと「成る」ことができ、駒の働きが異なってくる。成る場合には駒を裏返すが、呼び名が変化する。成り駒の名称と略称は次のとおり。飛車→竜王(竜)、角→竜馬(馬)、銀→成(なり)銀、桂→成桂、香→成香、歩→と(と金)。
[山本亨介・原田泰夫・田辺忠幸 2019年3月20日]
盤面の枡目(ますめ)は、縦が9格、横が9格で計81格。縦の筋を算用数字、横の段を漢数字で表す。先手(
(1)の手前)を基準として、縦の筋は右から左へ1から9まで、横の段は上から下へ一から九までの番号をつけてよび、その座標で枡目の位置を示す。その場合、縦の算用数字を先に横の漢数字をあわせて読む。 (1)で1一香、5九玉、8二飛、8八角と読み、その地点にその駒があることを示す。また駒の動きは、次の停止地点の座標の数字で駒の動きを表す。たとえば (1)で5五角といえば、8八角が5五まで進出したことを示す。[山本亨介・原田泰夫・田辺忠幸 2019年3月20日]
最下段の中央に玉(王)、以下左右に金銀桂香の順序で並べ、2段目に飛と角、3段目に歩を9枚並べる。江戸時代の将棋家元では
(2)の順序で並べていた。現在でもその慣習は残っているが、通常、上手(うわて)(強いほう)が上座につき、王と玉がある場合には、上手が王を置いてから、下手(したて)が玉を置き、あとは双方が自由に並べている。[山本亨介・原田泰夫・田辺忠幸 2019年3月20日]
8種類の駒はそれぞれ独自の動きをする。
(1)は玉(王)、金、銀の動きを示す。玉は周囲全部一つずつ動き、金は斜め下、銀は横と真下に動けない。玉は絶対的な駒であり、これが詰められたら負けとなる。通常、金は玉の守りにつく駒だが、敵玉に決定打を与えることも多い。銀は進退が速やかで攻め駒として重要な働きをする。 (2)は桂、香、歩の動きを示す。桂は前方へ一つ間をおいて斜め左右に動く独特の駒で、相手や自分の駒を跳び越えることができるので、跳(は)ねるあるいは跳ぶといい、攻撃には欠かせない駒である。香は別名、槍(やり)ともいわれ、その筋の奥まできく(動かせる)。歩は前方に一歩一歩進む。歩は使用頻度が多く、使い方によって局面を大きく左右する。桂、香、歩は前に進むが、後退はできない。 (3)は銀、桂、香、歩が成り駒となった場合の動きを示す。成銀、成桂、成香、と(と金)は、すべて金と同じ働きをする。成る、不成(ならず)は自由で、通常成ったほうが効率がよいが、局面によっては成らずに使ったほうが効果的な場合がある。 (4)は飛車と、飛車が成った竜の動きを示す。飛車は縦と横にどこまでもきく。竜は飛車の力に加えて斜め四方に1格ずつきき、飛車あるいは竜は、敵陣内で使うと大きな効果を発揮する。敵陣内の駒をとって暴れまくり、敵玉を寄せる際の主役となる駒である。 (5)は角と、角が成った馬の動きを示す。角は斜め四方にどこまでもきき、馬は角の力に加えて上下・左右に1格ずつきく。角も飛と同様重要な攻め駒で、とくに馬になったときは竜に勝るとも劣らない強大な力を得る。さらに馬は自陣に引き付けて使うと効果的なことが多い。「竜は敵陣に、馬は自陣に」という格言がある一方、「馬の守りは金銀3枚に匹敵する」ともいわれる。なお、金・銀・桂・香・歩を小駒(こごま)、対して飛・角を大駒(おおごま)という。[山本亨介・原田泰夫・田辺忠幸 2019年3月20日]
将棋を指す場合、日本将棋連盟により決められた規約に従わなければならない。規則(禁じ手)を最初に成文化したのは2世名人大橋宗古である。おもな規約は次のとおりである。
〔1〕交互に指す 先手と後手が1手ずつ交互に指し、2手続けて指すと「二手指し」の反則。
〔2〕駒を取る 味方の駒のきき筋に敵の駒がいるときは、味方の駒をその位置まで移動させて敵駒を取ることができる。
〔3〕持駒(もちごま) 取った駒は持駒となり、味方の駒として、手番(指す番)のときに盤上へ打つことができる。
〔4〕王手(おうて) 玉が次に取られる状態をいう。玉は絶対的な駒であり、王手をかけられた側は、逃げる、合駒(あいごま)(相手のきき筋の間に駒を打つこと)をする、あるいは王手となった元の駒を取ることによって、王手を解消しなければならない。
〔5〕詰み 最終的に玉が王手を解消できなくなった状態で、将棋の最終目的は相手の玉を詰めることにあり、玉が詰んだ時点で勝敗が決まる。
〔6〕禁じ手 ①二歩(にふ)の禁 縦の筋に味方の歩がある場合、その筋に歩を打ってはいけない。②行きどころのない駒の禁 敵陣の1段目に桂、香、歩を打ってはならない。桂の場合は2段目もいけない。その地点に進む場合には、かならず成らなければいけない。③打ち歩詰めの禁 最終的に歩を打って詰めてはいけない。
(1)は打ち歩詰めの例。先手から後手王に2二歩とは打てない。また後手から先手玉に8五歩とは打てない。盤上の歩を突いて詰めるのは「突き歩詰め」といって、禁じ手ではない。また玉に逃げる余地があれば、歩を打って王手をしてもよい。〔7〕千日手(せんにちて) 同手順を繰り返すことを千日手という。同一局面が4回できて、盤面と持駒と手番が変わらない場合は、その時点で無勝負とし、改めて先手、後手を交替して指し直す。
(2)下は後手番として7八金、同金、6七金と迫る。先手は7九金打と受けるほかない。そこで後手は7八金、同金、6七金と迫り、先手はふたたび7九金と打つ。 (2)上も後手番で5三歩、同歩成、5二歩、5四歩とすれば、同手順が無限に続く形である。ただし連続王手の千日手は無勝負とせず、3回同手順を繰り返したところで、王手をかけている側を負けとする。すなわち千日手不成立である。 (3)で先手番2一角成、2三玉、3二馬、1二玉、2一馬、2三玉……とすれば同手順が無限に続くが、連続王手のため、攻めているほうが手を変えなければならない。〔8〕持将棋(じしょうぎ) 玉が敵陣に入った場合を入玉(にゅうぎょく)といい、双方の玉が入玉して詰める見込みがなくなったときは、双方の駒数で勝敗を判定する。その場合、双方の駒数が規定の枚数に達していれば、持将棋といって引き分けにする。駒数とは盤上の置き駒と持駒との合計数であるが、玉は計算に入れない。持将棋規定は次のとおり。大駒(飛・角)を5点、小駒(金・銀・桂・香・歩)を1点とし、合計24点以上あればよい。双方24点以上なら持将棋が成立。片方が24点に満たない場合は負けとなる。
(4)は双方が入玉した一例で、双方玉を詰める見込みがなく、ここで駒数を判定する。先手は大駒3枚(15点)、小駒16枚(16点)で合計31点で、条件を満たしている。後手は大駒1枚(5点)、小駒18枚(18点)で合計23点で、規定の24点に満たず、 (4)は持将棋が成立せず、先手の勝ちである。持将棋が成立した場合は無勝負、先後を交替して指し直しとするが、タイトル戦の場合は持将棋局も1局とみなす。たとえばタイトル戦七番勝負の第7局目で持将棋が成立したとき、次の指し直し局は第7局の指し直しではなく、第8局として記録される。[山本亨介・原田泰夫・田辺忠幸 2019年3月20日]
将棋を指すことを手合(てあい)または対局(たいきょく)という。1局の将棋は序盤、中盤、終盤の三つの戦いに大別される。序盤は攻撃、玉の守備を含め、よりよい位置に各駒を配置して陣形をつくる駒組み戦である。攻撃形は飛・角・銀・桂が中心となり、守備は玉の周囲に金・銀3枚を配置するのが理想とされる。攻守ともにすきのない陣形を組むことはいうまでもなく、とくに玉の安泰は勝負の要件である。このことを「玉を囲う」という。
[山本亨介・原田泰夫・田辺忠幸 2019年3月20日]
代表形は矢倉(やぐら)囲いと美濃(みの)囲いである。矢倉囲いには金矢倉、銀矢倉、総矢倉、片矢倉、流れ矢倉、銀立ち矢倉、菱(ひし)矢倉などがある。また美濃囲いには本(ほん)美濃囲い、その発展形としての高美濃(たかみの)囲い、銀冠(ぎんかんむり)囲いなどがある。ほかに穴熊(あなぐま)囲い、蟹(かに)囲い、雁木(がんぎ)囲い、船(ふな)囲いなどがある。玉の囲い方がそのまま戦法にもつながるものがあり、双方矢倉に囲う形は矢倉戦法あるいは相(あい)矢倉戦という。
[山本亨介・原田泰夫・田辺忠幸 2019年3月20日]
飛車の位置によって、居飛車(いびしゃ)戦法(三間飛車、向(むかい)飛車がある。穴熊にも居飛車穴熊と振飛車穴熊がある。そのほかにも袖(そで)飛車、位(くらい)取り、石田(いしだ)流、筋違い角など、局面に応じて緩急さまざまの戦法が用いられる。
)、振飛車戦法( )に大別される。居飛車では矢倉戦法、腰掛銀戦法、棒銀(ぼうぎん)戦法、横歩取り戦法、縦歩取り戦法などがあり、振飛車では中(なか)飛車、四間飛車、[山本亨介・原田泰夫・田辺忠幸 2019年3月20日]
将棋上達の心得としては、定跡により調和のよい駒組み(駒の陣形を組み立てること)を学ぶ、手筋を多く知って乱闘を臨機応変に戦う、一つだけでも高級な得意な戦法をもつ、自分より強い人と指して長所を吸収する、などがたいせつである。
手の読み方は、こうやる―こうくる―そこでこう指すと3手先を考えて着手する「三手の読み」が読みの基本であり、2手目の相手の最善手を考える。将棋は人知では解決できない深さをもち、悪手で勝負がつく知能ゲームで、悪手を指さない心の修業がたいせつである。恐れず、あせらず、喜びすぎず、冷静に1手として価値のある手を指す。心得ておくとよい基本を10項目に要約すれば、(1)攻めは飛・角・銀・桂・歩の協力、(2)玉の守りは金・銀3枚、(3)玉と飛車は反対の位置に、(4)歩をたいせつに有効に使え、(5)勝負どころに勝負手を指せ、(6)遊び駒を活用せよ、(7)次の好手をねらえ、(8)捨てる手筋を考えよ、(9)玉は包むように寄せよ、(10)局後に反省せよ、などが考えられ、格言的な言い方ではあるが、これをできるだけ実戦に役だてることが要諦(ようてい)である。
[山本亨介・原田泰夫・田辺忠幸 2019年3月20日]
段は数が多いほど高く、級は数が少ないほど上級である。プロの段級位とアマチュアの段級位とは内容が異なり、通常アマチュアの四段、五段がプロの4級、5級くらいに相当する。プロは6級を基点として順次昇級し、1級の次は初段となる。現在の最高段は九段である。以前は八段が最高位とされ、九段は名人と同義とされていたが、第二次世界大戦後「九段戦」が創設され、4期連続優勝した塚田正夫(1914―1977)八段が初の永世九段となった。その後大山康晴、升田幸三の両八段が抜群の強さを示したので、「名人2期、A級順位戦の好成績者に九段」の制度を創設し、3名の九段が誕生した。その後1973年(昭和48)新たに点数制の九段昇段規定がつくられた。さらに1984年に名人獲得者は1期、タイトル獲得者は3回(名人挑戦者はタイトル1回と同じ扱い)、八段に昇段してから250勝した者は九段に昇段することに改められた。さらに竜王2期で九段が追加された。ほかに引退棋士の昇段は理事会で判断することになった。
八段以下の昇段は順位戦の成績によるほか、各段位別に一般棋戦を含めた公式戦で得た勝ち星の総数による昇段制度が決められた。順位戦の昇段は5段階に分けたリーグ戦によって決める。C級2組は四段、1年間の成績で上位3名がC級1組に昇進して五段になる。以下、順次C級1組は上位2名がB級2組に昇進して六段、B級2組は上位2名がB級1組に昇進して七段、B級1組は上位2名がA級に上がり、八段に昇段する仕組みになっている。A級順位戦優勝者は名人挑戦者となる。
このほかに、1985年4月から、公式戦の総合勝ち星で昇段する制度が確立された。各段位別の昇段勝ち星は次のとおり。
四段から五段には100勝が必要で、順次、五段から六段は120勝、六段から七段は150勝、七段から八段は190勝、八段から九段は250勝である。ほかにもさまざまな昇段規定がある。四段以上が選手として公式棋戦に出場する権利があり、三段から6級までは「新進棋士奨励会」の一員として、修業中の立場とみなされる。
一般アマチュアの場合は日本将棋連盟によって段級位を認定され、規定の免状料を納めれば免状を取得できる。段位認定の基準は、県の最強者である「県名人」クラスが四段、日本一の「アマ名人」クラスが六段であり、該当者にはそれぞれの段位が授与される。1982年全日本アマ名人3回獲得者と歴代アマ名人戦優勝者に七段を贈る規定がつくられ、アマチュアの最高段は六段から七段に格上げされた。
[山本亨介・原田泰夫・田辺忠幸 2019年3月20日]
プロの公式戦はすべて平手(ひらて)戦(対等条件の手合)を採用しているが、奨励会対局と一般アマチュアの対局には段級位の差に応じて、上位者が駒を落として指すことがある。これを駒落ち、あるいは手合割りという。手合割りは現在のところ不統一であるが、日本将棋連盟道場の現行規定では(1)一段(級)差―下手先(下位者先手)、(2)二段(級)差―香落(左香を落とす)、(3)三段(級)差―角落、(4)四段(級)差―飛落、(5)五段(級)差―飛香落(飛と左香)、(6)六・七段(級)差―二枚落(飛と角)、(7)八・九段(級)差―四枚落(飛と角、両方の香)、(8)十段(級)差―六枚落(飛と角、両方の桂と香)となっている。
[山本亨介・原田泰夫・田辺忠幸 2019年3月20日]
(1)盤に相対するとき、上位者または目上の者が上座につく。(2)駒を並べるとき、駒箱から駒を出すのは上座に着いた者がする。王は上手、玉は下手が持つ。上手が王を置いたことを確認してから下手が玉を置く。(3)駒落ちの場合、まず平手の形ですべての駒を並べ、そのあと上手が落とすべき駒を駒箱にしまう。駒落ちはかならず上手の先番とする。(4)先後の決定は、平手で先手・後手を決める場合、記録係がつくときは記録係が上手の並べ終わった歩を5枚振り、表の歩が多ければ上手の先手、裏のと(と金)が多ければ下手側の先手とする。記録係がつかないときは対局者自身の手で行い、歩が多く出れば振ったほうの先手、と(と金)が多く出れば相手の先手とする。これを「振り駒(ふりごま)」という。
対局と観戦の心得として昔からとくに禁じられている2点は「待った」と「助言」である。観戦中、好手を発見しても対局中は発言すべきでなく、終局後、感想戦に加わって自分の意見を述べるのが常識である。
[山本亨介・原田泰夫・田辺忠幸 2019年3月20日]
日本将棋連盟所属の現役棋士は約160人(2018年時点)で、名人を頂点に九段から四段までの棋士で構成されている。各報道機関と契約して棋戦を組み、対局料は契約金から支払われる。棋戦によって契約金に差があり、個人の対局料も段位、順位戦の地位、また勤続年数から計算される。高段、高位ほど対局料が多いのはいうまでもないが、勝ち進めば対局数が増えるため、おのずと対局収入が増えていく。対局料のほか、棋士には日本将棋連盟より給料が支払われる。そのほかに普及指導、講演、執筆、テレビ出演などの副収入もあり、棋士の生活は近年、安定・向上の傾向にある。1974年(昭和49)に女流プロの棋戦が創設され、2018年時点で、女流棋士は50人を超えて人気が高まっている。
[山本亨介・原田泰夫・田辺忠幸 2019年3月20日]
棋士になるには日本将棋連盟所属の四段以上の棋士に師事し、奨励会の入会試験を受けなければならない。試験は、奨励会員との対局、筆記試験、書類選考の3段階があり、棋力、年齢、健康、性格、家庭状況、学力を調査したうえで合否を決める。そのうち棋力がもっとも重要な評価対象となるが、10歳前後でアマチュア四段程度の実力が必要とされる。奨励会は日本将棋連盟の付属機関であるが、会員は棋士とはみなされず、対局料、給料は支給されない。6級から三段までで構成され、月2回の奨励会対局で昇級昇段を競う。規定の成績を収めれば順次昇進していき、成績が悪いと降級もありうる。奨励会も明確な勝負の世界であり、そのなかで四段以上のプロ棋士となるのは一部である。奨励会には年齢制限があり、原則として21歳の誕生日までに初段、26歳の誕生日までに四段に昇段しない場合は退会を余儀なくされる。
[山本亨介・原田泰夫・田辺忠幸 2019年3月20日]
将棋盤、駒、駒台をあわせて一組になる。盤の寸法は、幕府の将棋所で、縦1尺1寸8分、横1尺8分、厚さ3寸8分、足の高さ3寸と決められていたが、現在は「尺一、尺二」といって、横1尺1寸(約33センチメートル)、縦1尺2寸(約36センチメートル)が標準とされる。厚さに規定はなく、厚いものほど価値があるとされている。公式戦では六寸盤(約20センチメートル)を使用することが多く、まれに八寸盤も使われる。材質はカヤ(榧)が最上とされ、色が美しく、弾力性に富み疵(きず)がついても復原力がある。とくに柾目(まさめ)の盤は珍重される。そのほか、銀杏(いちょう)、桂(かつら)などがある。盤の足の長さは、厚さによって決められる。足の形は、助言を禁じ、クチナシ(梔)の花を模したと伝えられているが、俗説である。また盤の裏には約10センチメートル四方のへそが彫られている。助言者の首を置くためのものといわれるが、これも俗説で、駒を打ち下ろしたときの響きぐあいや盤の反りを防ぐためのものである。
駒はツゲ(黄楊)材が最上とされ、ほかにツバキ(椿)、マキ(槙)、ヤナギ(柳)などがある。柾目や虎斑(とらふ)のツゲ駒は珍重される。文字は、彫ったところに漆を埋め、その上にさらに漆を盛り上げる盛上げ駒が最高級品で、以下、彫埋め、彫り駒、書き駒(番太郎駒)と続く。普及駒は山形県天童市で90%以上が生産される。駒の書体は30種ほど伝えられているが、一般には錦旗(きんき)、水無瀬(みなせ)、菱湖(りょうこ)、清安(きよやす)などが知られている。駒台は持駒を置く台である。クワ(桑)材が最上で、他の材質も使われる。盤、駒の手入れには植物性の油を湿した布でふき、そのあと油けをふき取る。直射日光と風に当てるのはよくない。
[山本亨介・原田泰夫・田辺忠幸 2019年3月20日]
プロ棋士が行う公式戦は対局数や日数、持ち時間、秒読み開始時間などがタイトルによって異なる。タイトル戦では予選によってタイトル保持者に対する挑戦者を決定し、七番または五番勝負で勝敗を決することが多い。おもなタイトル戦のうち、竜王、名人、王位、王座、棋王、王将、棋聖、叡王は八大タイトルとよばれ、現役男性棋士全員に参加資格があり、一定の条件下で女流棋士やアマチュアが参加するものもある。2015年に創設された叡王を除く七大タイトルを同時に保持することを七冠と称し、1995年に羽生善治が達成している。生涯通算で七大タイトルを制することはグランドスラムとよばれ、羽生のほかには1991年に谷川浩司が達成しており、また1987年に終了した十段が竜王の前身であることから中原誠も達成者(1983年)とみなされることがある。これらのタイトルは5期連続または通算10期獲得など一定の条件を満たすことで、引退後(または60歳を過ぎた後)に永世竜王といった永世称号を名乗ることができる。もともと将棋の家元名であった名人に限り、代数を入れて「○○世名人」と名乗る。1935年に関根金次郎が名人位世襲制を廃してから2015年までに、木村義雄(14世)、大山康晴(15世)、中原誠(16世)が通算5期獲得によって名人を襲位しており、条件を満たしている谷川浩司(17世)、森内俊之(18世)、羽生善治(19世)も引退後に襲位することが決定している。
女流プロ棋士の公式戦では女王(女子オープン)、女流王座、女流名人、女流王位、女流王将、倉敷藤花などがある。女王と女流王座は2000年代に入ってからの創設と新しいこともあって2018年までに女流六冠達成者はおらず、里見香奈(1992― )が五冠を獲得(2013、2016年)したのが最高記録である。
竜王戦
九段戦(1950~1961年開催)、十段戦(1962~1987年開催)を前身とし、1988年に創設された。読売新聞社主催。挑戦手合七番勝負。全棋士と女流棋士4名、アマチュア5名が6組に分かれてランキング戦を行い、上位者11名による決勝トーナメントで挑戦者を決定する。持ち時間は8時間。初代は島朗。
名人戦
1935年創設。毎日新聞社、朝日新聞社主催。挑戦手合七番勝負。順位戦とよばれる予選のA級棋士10名の中から挑戦者を決定する。持ち時間は9時間。初代は木村義雄。
王位戦
1960年創設。新聞三社連合主催。挑戦手合七番勝負。全棋士と女流棋士2名による予選トーナメントを行い、その勝ち上がり者とシード棋士によるリーグ戦で挑戦者を決定する。持ち時間は8時間。初代は大山康晴。
王座戦
1953年創設。日本経済新聞社主催。挑戦手合五番勝負。全棋士と女流棋士4名による一次、二次トーナメント戦の勝ち上がり者とシード棋士によるトーナメント戦で挑戦者を決定する。持ち時間は5時間。初代は大山康晴。
棋王戦
1974年創設。共同通信社主催。挑戦手合五番勝負。全棋士と女流名人、アマ名人が参加して予選を行い、予選通過者とシード棋士30余名によるトーナメント戦で挑戦者を決定する。持ち時間は4時間。初代は内藤國雄(1939― )。
王将戦
1950年創設。スポーツニッポン新聞社、毎日新聞社主催。挑戦手合七番勝負。全棋士による予選トーナメントの勝ち上がり者とシード棋士によるリーグ戦で挑戦者を決定する。持ち時間は8時間。初代は升田幸三。
棋聖戦
1962年創設。産経新聞社主催。挑戦手合五番勝負。全棋士と女流棋士2名による一次、二次トーナメント戦の勝ち上がり者とシード棋士によるトーナメント戦で挑戦者を決定する。持ち時間は4時間。初代は大山康晴。
叡王戦
2015年創設。ドワンゴ主催。挑戦手合七番勝負。全棋士と女流棋士1名、アマチュア1名による段位別予選を通過し、本戦となるトーナメント戦を勝ち上がった2名で七番勝負を行う(第4期以降は本戦優勝者が叡王への挑戦権を獲得)。持ち時間は変則(第1局から第6局までは2局ごとに棋士の選択により1、3、5時間を振り分ける。第7局は6時間)。初代は山崎隆之(1981― )。
女王戦
2008年創設。大会名はマイナビ女子オープンで、マイナビ主催。挑戦手合五番勝負。女流棋士によるトーナメント戦で挑戦者を決定する。初代は矢内理絵子(1980― )。
女流王座戦
2011年創設。リコー主催。挑戦手合五番勝負。女流棋士と日本将棋連盟所属の女性奨励会員、女流アマチュアで予選を勝ち抜いた者による予選トーナメントにより挑戦者を決定する。持ち時間は3時間。初代は加藤桃子(1995― )。
女流名人戦
1974年創設。報知新聞社主催。挑戦手合五番勝負。全女流棋士による予選トーナメントの勝ち上がり者とシード棋士によるリーグ戦で挑戦者を決定する。持ち時間は3時間。初代は蛸島彰子(たこじまあきこ)(1946― )。
女流王位戦
1990年創設。新聞三社連合主催。挑戦手合五番勝負。予選トーナメントの勝ち上がり者とシード棋士によるリーグ戦で挑戦者を決定する。持ち時間は4時間。初代は中井広恵(1969― )。
女流王将戦
1978年創設。囲碁将棋チャンネル主催。挑戦手合三番勝負。女流棋士と選抜された女流アマチュアによる予選トーナメントの勝ち上がり者とシード棋士によるトーナメント戦で挑戦者を決定する。持ち時間は3時間。初代は蛸島彰子。
倉敷藤花戦
1993年創設。倉敷市、倉敷市文化振興財団、山陽新聞社主催。挑戦手合三番勝負。全女流棋士によるトーナメント戦で挑戦者を決定する。持ち時間は2時間。初代は林葉直子(1968― )。
[編集部 2019年3月20日]
『原田泰夫・天狗太郎著『将棋名勝負物語』(1972・時事通信社)』▽『山本武雄著『将棋百年』改定新版(1976・時事通信社)』▽『木村義雄著『名人木村義雄実戦集』(8巻・資料1巻・1978~1982・大修館書店)』▽『山本亨介著『将棋文化史』(1980・筑摩書房)』▽『増川宏一著『将棋Ⅱ』(1985・法政大学出版局)』▽『加藤治郎・原田泰夫・田辺忠幸著『〔証言〕将棋昭和史』(1999・毎日コミュニケーションズ)』▽『増川宏一著『将棋の駒はなぜ40枚か』(集英社新書)』
将棋駒を使った盤上遊戯。古文献には〈象戯〉〈象棋〉〈象棊〉と記されているが,本項では書名以外は〈将棋〉と表記した。今日,日本の将棋に類する遊びは世界各国で行われているが,おもなものに中国象棋(32枚の円い駒を使い,線上を動く),朝鮮将棋(八角形の駒32枚)があり,さらに将棋の発祥地であるインドからミャンマー,タイ,ベトナムに及ぶ東南アジア一帯でも行われている。また,ヨーロッパを中心に国際的な広がりをもっているチェス(西洋将棋)もその起源は将棋と同じである。
将棋は古代インドで遊ばれていた盤上ゲームから発展したもので,紀元前3世紀ころにインドで創造されたと推定される。将棋はそれまでの盤上遊戯が駒を競争させるゲームであったのに対し,(1)敵味方の駒が対峙して取りあい,(2)それぞれの駒に性能の差がある,という点で画期的なゲームであった。最古の将棋はサンスクリットでチャトランガchaturanga(チャトゥルchaturは4,アンガangaは組)とよばれ,直訳すると4組となるように,4人で遊ばれた。8×8の升目の盤上に黄,緑,赤,黒に色わけされた4組の駒を配し,各組の駒は歩兵4枚,戦車,騎兵,象,王各1枚の合計8枚から成っていた(図1)。駒の種類は紀元前5世紀からのインドの軍団編成を模したもので,それ以前の盤上ゲームの影響から2個のさいころを振って,動かす駒の種類とその動きを決めながらゲームを進めた。それぞれの駒には点数がつけられ,王を詰ますより相手の駒を取って得点するゲームだった。その後チャトランガは対面するどうしが組んで遊ぶようになり,さらにルールの不備を解消するために3世紀ごろには2人制になり,さいころも使われなくなった。2人制になると従来の2組の駒が同じ組になったので王が2枚になったが,1枚は将または司令官の駒に変化した。駒の配置は図2のようで,8×8の升目の盤上に下段の端から戦車,騎兵,象,王,将,象,騎兵,戦車の順に置き,下から2段目に8枚の歩兵を並べた。
こうしてインドに誕生した将棋はいくつかの方向に伝えられた。第1のルートは古代ペルシア地方で,6世紀のペルシアの物語に将棋はインドから伝えられたことが記されている。また,現存する8世紀の駒から,アラブ人によって西方へ伝えられ,今日のチェスになったことがわかる。第2のルートである東方への伝播はガンガー(ガンジス)川の河口地帯からビルマ(現,ミャンマー)に伝わり,東南アジアから中国南岸地方を経て日本に伝わったと考えられる。第3は北方で,インドから中央アジアを経て中国北部に伝わったと推定される。1960年代に中国福建省泉州で13世紀の中国象棋の駒が発掘されたが,現在の中国象棋の駒とまったく同じであった。それゆえ,遅くともこの時期までに中国象棋が完成していたと判断できる。それ以前の日本で,すでに中国象棋と異なる日本独特の型の将棋があったので日本将棋は中国象棋を模倣したのでなく,中国から伝えられたのでもないことが明瞭である。しかし将棋の駒は漢字で記されているので,中国文化の影響を強くうけていることは否定できない。将棋の駒はインドから伝わったそれぞれの地域で,その地に最も有用な動物や物品に変化し,東南アジアでは戦車の駒が船に,中央アジアでは象の駒が駱駝(らくだ)に変化した。
日本へは東南アジア系の将棋が古い時代に伝来したと考えられるが,物証や記録はない。将棋についての最古の文献は11世紀初めの藤原行成の著とされる《麒麟抄(きりんしよう)》で,駒の文字の書き方について記されており,このときの将棋は,(1)駒の字は楷書でも行書でもよく,(2)駒は〈成る〉ことができ,(3)成り駒は金と草書で書く,ことのみが判明している。藤原明衡(あきひら)の《新猿楽記》(11世紀中ころ成立)にも将棋の語がある。12世紀初めころの編纂とされる歴史・習俗事典《二中歴》には〈将棋〉と〈大将棋〉が説明されている。これらは日本将棋の原型で〈将棋〉は9×9の升目の盤で現在の将棋から飛車と角行を除いたもの(図3),〈大将棋〉は13×13の升目の盤であり,双方の駒数合計は68枚13種類で,現在の将棋にない注人,奔車,飛竜,猛虎,横行,鉄将,銅将の駒がある(図4)。皇后宮権大夫の日記《長秋記》の大治4年(1129)5月20日条,藤原頼長の日記《台記》康治1年(1142)9月12日条に将棋の記事があり,将棋,大将棋ともに12世紀中ころに遊ばれていたことがわかる。当時は将棋の駒は漢字なので女性には親しまれず,ごく少数の貴族や僧侶の遊びで,囲碁やすごろくより高尚とされた。
藤原定家の日記《明月記》に将棋の記事があるように鎌倉時代にも将棋は遊ばれたが,この時代も貴族や僧侶の遊びであった。しかし平安時代の将棋や大将棋は変化して14世紀の中ころに新しい型の〈中将棋〉がつくられ,15世紀に広まった。中将棋は江戸時代の初期まで最も遊ばれ,第2次世界大戦前まで愛好家によって細々と遊び継がれた将棋である。盤は12×12の升目をもち,駒数合計92枚21種類で,下から5段目まで配置する。仲人,横行,竪行,獅子,反車,盲虎,麒麟,鳳凰,猛豹,銅将などの駒もあり,複雑な動きの獅子の駒で興味深い将棋になっている(図5)。駒は取捨てで相手から取った駒は再使用できない。原本が残っていないので不明確であるが,1443年(嘉吉3)の写本である《象棋六種之図》に小将棋,中将棋,大将棋,大大将棋,摩訶(まか)大大将棋,泰将棋が記されている。小将棋は現在の将棋に類似し,大将棋は平安時代の大将棋と異なり,升目は15×15の盤で駒数は130枚29種類,大大将棋は17×17の盤で駒数192枚68種,摩訶大大将棋は19×19の盤で駒数192枚51種類,泰将棋は25×25の盤で駒数354枚93種類である。駒の名称は仏教典の用語が多いので作者は僧侶と考えられるが,泰将棋は仏教知識修得の教材ともみられる。これらの大型の将棋は興味を深めるために駒数や種類を増やしたが,駒の動きの煩雑さや勝負の手数,時間からみて実用されなかったと推定される。結局,最も遊びに適したのは中将棋までの大きさであり,室町時代から戦国時代を経て江戸時代に至るまで小将棋と中将棋が遊ばれた。将棋はこの時代も依然として貴族,僧侶,武士の上層,大商人によって愛好され,しだいに広まったとはいうものの,消閑の遊びのために,国民の大多数を占める農民や職人は困窮と文盲から将棋に興じるだけの余裕はなかった。将棋を愛好した貴族や武将で記録に残っているのは後崇光院貞成,甘露寺親長,多胡辰敬(たこときたか),三条西実隆(さんじようにしさねたか),山科言継(やましなときつぐ),上井覚兼(うわいかくけん)らがおもなものである。
現在の型の将棋が完成した時期を探ってみると,中将棋とともに遊ばれた小将棋は下から2段目中央に〈酔象〉の駒があったとみなされ,越前朝倉氏館跡から発掘された将棋の駒にも酔象があった。この遺跡の年代からみて1560-67年(永禄3-10)までは酔象の駒のある小将棋が遊ばれていたと考えられる。1694年(元禄7)版の《諸象戯図式》にも,当時からみた〈近年〉まで酔象の駒のある小将棋があったと記されている。松平家忠の日記《家忠日記》の天正15年(1587)2月条に将棋の図が記されているが,これは現在の将棋とまったく同じであるので,幾多の変遷を経て将棋が現在の型になったのは16世紀の後半と推定される。なお,駒数の少ない小将棋がゲームの興味を増すために,相手から取った駒を再使用できるルールを確立したのもこのころのこととみなされる。
戦国時代の武将であった織田信長,徳川家康,豊臣秀頼らは,当時の将棋の上手(じようず)であった本因坊算砂や大橋宗桂らを召し出して指させるなど将棋への関心が高かった。徳川幕府が成立した直後に算砂や宗桂は囲碁,将棋の芸人として召しかかえられて,この部門は碁将棋所(ごしようぎどころ)とよばれた。算砂がその司に任ぜられたが,1612年(慶長17)に算砂,宗桂に家禄50石が支給された。34年(寛永11)に大橋家は宗桂の長子・宗古が継いだが,宗古の弟宗与は分家し,宗桂の門人伊藤宗看(そうかん)(後の3世名人)が宗古の娘婿となって新たに伊藤家を興した。35年大橋両家と伊藤家に家禄20石が支給されるようになり,この世襲3家によって家元制度が確立した。歴代名人はこの3家で継ぐことになり,名人就位の際に詰将棋をつくって幕府に献上することが義務づけられた。名人の権威を保持するため,たとえ3家の当主であっても実力がなければ名人に就位できなかった。62年(寛文2)に将棋指衆の3家は寺社奉行の管轄下におかれ,将棋を担当する役目を〈将棋役〉といった。将棋指衆は毎年4月10日から12月7日まで奉公し,11月17日には江戸城黒書院または白書院で将棋を指して上覧に供することになった。この行事は御城将棋または御前将棋とよばれた。名人がつかさどる〈将棋所〉という呼称は18世紀になってから定着した。将棋所の設置は将棋史上画期的なできごとで,(1)将棋が官許の遊芸として公認され,(2)将棋指しが遊芸人から幕臣の末端に加えられ,(3)名人を基準にして全国的に段位の決定が可能になり,強弱の統一した基準が定まり,(4)大橋宗桂,宗古によって将棋のルールが確立した。さらに,(5)公認の将棋は小将棋で,以後将棋という場合には小将棋を指すことになり,中将棋は衰退していった。
1616年(元和2)に初代宗桂が《象戯馬法並作物(しようぎうまのほうならびにつくりもの)》を出版した。その後も《中古将棊記》(1653)などで棋譜,戦法,詰将棋が紹介され,18世紀になるとこのような棋書があいついで出版され,技法水準も著しく向上した。今日の基本的な駒組みである矢倉囲い,振り飛車もこのころに案出された。江戸の将棋家からみた将棋の強豪は《象戯綱目》(1707)によると京都13人,江戸3人,大坂3人,加賀2人,安芸1人,伊勢1人となっている。また当時,京都に将棋指南所が2軒あったことが記録されている。1717年(享保2)に全国の有段者は167名を数えるほどに普及し,加賀藩主前田重教は熱心な将棋の愛好家で家臣に将棋を奨励した。代々の大橋家も将棋会所を開き,1818年(文政1)74名の有段者の門弟がいた。幕末の棋書としては棋聖と称された天野宗歩の《将棋精選》(1853)が傑出している。詰将棋では7世名人伊藤宗看の《将棋無双》(1734)は後世《詰むや詰まざるや百番》と異称される高度な作品集で,その弟看寿の《象棋百番奇巧図式》(1755)とともに独自の分野を確立した。
将棋は江戸時代になって武士,町人層にしだいに愛好されるようになったが,中世の貴族たちが勝負にかけていたように江戸時代にも将棋はしばしば賭の対象になっていた。1597年(慶長2)の長宗我部元親の家訓や,1653年(承応2)の幕府の町触も賭将棋を禁じているように,将棋を含む盤上遊戯の賭勝負禁止は,幕府の法令だけでなく各藩法にも数多く記されている。1750年(寛延3)の〈住友総手代勤方心得〉には仕事場で将棋を指すのを禁じているし,91年加賀藩主前田治脩が賭将棋を行った家臣たちを処罰しているように,将棋が普及したのは賭博用具という側面も大きい。江戸時代の後半になると町人,職人,農民にも将棋は広まり,都市部の湯屋(公衆浴場)の階上は将棋会所のようであった。将棋の流行を反映した戯作として式亭三馬の《浮世風呂》(1809)はその代表的なもので,庶民の将棋の楽しみをこっけいに描いている。また,川柳に将棋の機微を扱った作品が多数つくられた。将棋は江戸時代に隆盛の一途をたどったが,1843年(天保14)10世名人6代目伊藤宗看の死により,事実上将棋所は終焉した。
将棋の最大の後援者といえる江戸幕府の崩壊により家禄を失った将棋3家は衰退し,1879年伊藤宗印が11世名人になったが,名人位は江戸時代のような権威はなかった。81年大橋分家は宗与の死で絶え,ついで93年宗印の死で伊藤家も終わった。その17年後に大橋本家も絶えてすべての家元は絶えた。98年天野宗歩門下の小野五平が後援者に推されて68歳の老齢で12世名人を名のった。小野の名人就位は家元制度の廃止であったが,直ちに他の将棋師や愛棋家から異議を申したてられたように,明治後半期の将棋界の混迷と不統一を端的に示している。1905年当時最強の将棋師といわれた関根金次郎が12代大橋宗金の免許で八段になり,免状発行権利の委譲をうけた。08年国民新聞と万朝報(よろずちようほう)が将棋欄を設けたので将棋への関心は高まったが,翌09年棋譜掲載の独占をねらって万朝報が〈将棋同盟会〉をつくると,国民新聞も対抗して井上義雄八段らによる〈将棋同志会〉を結成した。同じころ大阪の坂田三吉七段が〈関西将棋研究会〉をつくり16名を組織して当時の最大の集団になった。15年坂田は小野名人の免許で八段になり,名実ともに関西将棋界の頂点に立った。
将棋師の小集団は離合集散を繰り返していたが,21年関根金次郎が13世名人になったのを機会に,各派合同の機運が高まり,24年〈東京将棋連盟〉が結成された。〈東京将棋連盟〉の結成は大阪で名人に就位した坂田との対立を生んだが,27年大阪の木見金治郎八段が組織していた〈棋正会〉が〈東京将棋連盟〉に合流し,東京の組織も発展解消して新たに〈日本将棋連盟〉がつくられ,大方の統一が達成された。その後,坂田は大阪朝日新聞の嘱託を辞し,同時に大阪朝日新聞専属の将棋師会〈十一日会〉が結成されて大阪朝日新聞と日本将棋連盟との和解工作がはじまったが,同時に特定の集団や後援者による名人就位に疑義や批判も高まった。
35年13世名人関根金次郎は名人世襲制を捨てて実力名人制を採用するという決断を下し,棋界は新しい時代を迎えた。その後,大阪の〈十一日会〉代表,神田七段の昇段問題をめぐって〈日本将棋連盟〉が分裂するという事態も生じたが,36年,すべての会派を解散して新たな組織をつくるという小菅剣之助の調停が成功して,坂田を除く全員で〈将棋大成会〉が発足した。これによって長年にわたる関東・関西間の対立も解消し,棋界の本格的な統一が達成された。明治末期以来つねに将棋の愛好者が増え続けたのはマスコミによる宣伝が大きく寄与している。各新聞社の将棋師後援は,新聞社ごとに系列化された小集団を生み,互いに対立したが,国民の将棋愛好熱を高めた面では大きな功績を残した。1919年のラジオによる対局放送と,29年からの東京中央放送局の〈ラジオ将棋速成講座〉開始も将棋の普及に大いに役だった。実力名人位決定戦は多数の愛好者の注目のうちに木村義雄が優勝し,38年初代の実力名人誕生となった。以後木村が優勝を続け,第2次大戦が終わった直後まで名人の座にあった。
46年将棋大成会は〈日本将棋連盟〉の名称に戻って再発足した。この年から全棋士による順位戦(後の名人昇降級リーグ戦)がはじめられ,A級優勝者が名人に挑戦する制度になった。戦後の歴代名人は塚田正夫,木村義雄,大山康晴,升田幸三,中原誠,加藤一二三(ひふみ),谷川浩司(1984現在)である。
将棋は日本独特の盤上ゲームとして発展し,1962年のテレビによる対局放映開始や,文部省が73年公立中学校で,翌74年公立高校のクラブ活動に将棋を認可したことなどにより,青少年層を含む愛好者がさらに増大した。統計上も1年に1回以上将棋・囲碁を楽しんだ人は1790万人(1981年版《国民生活白書》)で,ルールを知っているだけの初心者から有段者まで将棋愛好者は約1000万人と推定されている。将棋雑誌も日本将棋連盟発行の《将棋世界》《将棋マガジン》のほか,《近代将棋》《枻(えい)》《将棋ジャーナル》があり,棋書は多数出版されている。アマチュアの有段者は約6万人で毎年全国大会としてアマ名人,朝日名人,読売日本一,アマ王座,赤旗,支部対抗,職域団体対抗,女流アマ名人の各棋戦のほか学生名人,高校選手権,中学生選抜選手権,よい子名人などがある。将棋の海外普及はロンドン将棋協会主催のヨーロッパ・トーナメント戦が78年以来毎年おこなわれているが,参加者は50名以下で外国人への将棋の普及はまだきわめて少ない。
プロの棋界では四段以上を専門棋士といい,これになるには将棋連盟の棋士養成機関である奨励会に入会し,一定の成績をあげなければならないが,厳しい年齢制限もある。専門棋士はすべて日本将棋連盟に所属し,5段階に分かれている名人戦昇降級リーグ戦や他のタイトル戦に参加する。タイトル戦は名人戦(毎日新聞),王将戦(毎日新聞),十段戦(読売新聞),王位戦(新聞3社連合ほか),棋聖戦(サンケイ),棋王戦(共同通信),王座戦(日本経済)の七つで,ほかに早指し選手権戦(テレビ東京),NHK杯戦(NHK),連盟杯戦(地方紙),名将戦(文芸春秋),全日本プロ・トーナメント(朝日新聞),新人王戦(赤旗),女流名人戦(報知新聞),女流王将戦(将棋マガジンほか)などの各棋戦があり,テレビ,新聞,週刊誌で棋譜が紹介されている。1976年東京に将棋会館が新築され,81年には大阪にも将棋博物館のある関西将棋会館が新築され,将棋普及の拠点となった。
駒は中国や朝鮮は円形や八角形で,長五角形の駒の形は日本独特のものである。駒に文字を記して識別するのは中国,朝鮮と日本だけであるが,金,銀,桂,香,玉は珍品佳宝をあらわす形容詞なので,本来の駒の名称は将,馬,車,兵であった。1980年に山形県の城輪柵(きのわのさく)遺跡から出土し,鎌倉時代のものと推定されている〈兵〉と記した駒が,今のところ最古の駒であるが,すでに五角形の駒である。越前朝倉氏館跡や播州御着城(ごちやくじよう)跡からも16世紀の駒が発見されている。駒の素材はツゲを最上級としツバキ,マキ,ヤナギがこれに次ぐ。60年代以降はプラスチック製の駒が木製に代わって広く用いられている。山形県天童市が駒の産地として江戸時代末期より著名である。駒の字は平安時代から能筆家が書き,15世紀から16世紀にかけて世尊寺伊忠(せそんじこれただ),三条西実隆,中御門宣胤(なかみかどのぶたね),粟津修理亮,水無瀬兼成(みなせかねしげ)らが書いたとされている。なかでも水無瀬家は兼成の子の親具(ちかとも),その子の氏成と能筆家が続いたので江戸時代に駒の書体の宗家とされ,水無瀬駒として珍重された。水無瀬家に残る《将棊馬日記》(1590-1602)は,多くの貴族や武将が駒を注文した記録である。江戸時代後期には清安,金竜,真竜,巻菱湖(まきりようこ)の書体が有名である。駒の字はツゲを薄く彫って漆で文字を盛り上げた盛上駒を最上とし,字を彫った彫駒,書駒が次ぐ。
将棋盤は碁盤の寸法が定まっていた1199年(正治1)のころから碁盤に準じて貴族社会ではほぼ定尺が定められたとみなされるが,寸法が決まったのは江戸時代になってからである。御城将棋に用いられた将棋盤は側面が蒔絵(まきえ)の華美なもので,厚さ3寸5分(約11cm),盤面の高さは脚ともで6寸5分(約20cm)であった。一般に使われていたのは縦1尺2寸(約36cm),横1尺1寸(約33cm),厚さ2寸7分(約8cm),高さ7寸(約21cm)となっていて,現在の高級品である厚さ7寸の盤はなかった。江戸時代前半には盤製造業は専業となり,盤師は1687年(貞享4)に江戸で3人,90年(元禄3)京都3人,大坂1人と記録されている。独特の脚の形も江戸時代にはじまったと推定される。盤の素材はカヤが最高級品でカツラがこれに次ぐ。現在では外材製やプラスチック盤,板盤,ビニルシート盤が大衆的に使われ,旅行用の小型磁石盤もある。駒台は明治中期の考案で,駒箱とともにクワ材を最高とする。
駒の配置は図6のとおりで,上手が王将,下手が玉将をもつ。8種類の駒はそれぞれ違った性能をもっており,図7の矢印の範囲で動くことができる。すなわち,歩兵(ふひよう)は前方に1升目ずつ進み,香車(きようしや)は前方にどこまでも進める。桂馬(けいま)は前方2升目の左右いずれかの升目に,他の駒を飛び越えて進める。銀将は左右とまうしろを除くどの方向へも1升目ずつ進め,金将は斜め後方の左右以外はどの方向へも1升目ずつ進める。王将(または玉将)はすべての方向に1升目ずつ進める。角行(かくぎよう)は斜め左右の前後にどこまでも進め,飛車は左右上下にどこまでも進める。ただし桂馬以外は敵味方の駒を飛び越えて動くことはできない。王と金以外の駒は相手の陣の3段目以上に進んだ場合,〈成る〉ことができる。成る,成らないは対局者の自由だが,歩,香を敵陣の1段目,桂を敵陣の1,2段目に進めた場合は成らなければいけない。いったん成った駒は元の性能に戻すことはできない。歩,香,桂,銀は成ると金になり,飛車は本来の性能に加えて斜め前後左右に1升目ずつ進める竜王になり,角は本来の性能に前後左右1升目ずつ進める竜馬になる。
(1)将棋は先手,後手をきめ,交互に1手ずつ指し,指し手を棄権することはできない。(2)桂馬以外の駒は他の駒を飛び越すことはできない。味方の駒の動ける升目に相手の駒がある場合,手番ならその駒を取り,相手の駒があった位置へ味方の駒を移動させることができる。(3)取った駒は味方の駒として使うことができる。(4)駒の上に駒を重ねて打つことはできない。(5)相手の王を詰めれば勝ちだが,不注意で王が取られた場合は,取られたほうが負けとなる。(6)同じ縦の列に味方の歩を2枚置く〈二歩〉は禁じられている(図8-a)。(7)歩を打って王を詰めてはいけない(打ち歩詰め)。突いて詰めるのはよい。(8)次に行くところのない位置に歩,香,桂を打ったり(図8-b),成らずにその位置に進んではいけない(行かずの駒)。(6)(7)(8)を将棋の三大禁手といい,これを犯すと通常負けとなる。(9)同じ手順を繰り返し,同一局面が4度目に生じたときは,千日手(せんにちて)といって無勝負になる。ただし連続王手の場合は攻めているほうが手を変えなければならない。(10)双方とも王将が敵陣へ入り,どちらも相手を詰める見込みがなくなった場合,〈持将棋(じしようぎ)〉といって引分けになる。ただし,飛車と角を各5点,他の駒を各1点として計算し,どちらかが24点に満たなければ負けとなる。双方24点以上なら持将棋である。
将棋の勝負では下位者が先手であるが,技量が同等(平手(ひらて))の場合は,歩を5枚(または3枚)振って,その表裏で先手,後手をきめる。また技量に差のある場合は駒落(こまおち)戦といって,上手が相手との技量の差に応じて左香車,角,飛車,飛車と左香車,飛車と角,飛車と角と2枚の香車,さらに2枚の桂馬(いわゆる6枚落ち)という順に駒をはずして,駒を落とした上手がつねに先手で勝負を始める。
将棋の駒を使った他の遊び方として,駒を積み上げて崩さないように取り除いていく積(つみ)将棋,中央3筋に9枚の駒を置いて相手側に早く達するのを競う蛙跳び,下段に駒を並べて相手の駒をはさんで取りあうはさみ将棋,金将をさいころ代りに振って盤上の周囲を回りながら上っていくすごろくの応用の歩回り(回り将棋)などがある。
執筆者:増川 宏一
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81升目の盤上に双方20枚ずつの駒で争い,相手の王将をとりあう盤上遊戯。中国から10世紀中頃に伝来したとされる。13世紀初には駒数升目が少ない将棋と多い大将棋があった。14世紀に中間の中将棋が考案され,中世の公家・武家・僧侶などに流行。将棋が現在の型になるのは16世紀後半で,なかば職業化した将棋指(さし)がいた。江戸幕府は将棋3家(大橋宗桂(そうけい)の本家・分家と伊藤宗看(そうかん)家)に家禄を支給して世襲,将棋が各階層にも普及する契機になった。明治維新で将棋3家は困窮したが,一般の愛好者の会が組織され新聞社が棋士を支援。のちに全職業棋士による日本将棋連盟が組織された。1935年(昭和10)実力による名人就位制度が発足。新聞社主催の棋戦も多く,現在は最も大衆的な盤上遊戯になっている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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