江戸後期の教育家、漢詩人、徳行家、儒学者。豊後(ぶんごのくに)国日田(ひた)(大分県日田市)の人。旭荘の兄。通称を幼時は寅之助(とらのすけ)、ついで玄簡(げんかん)、長じて求馬(もとめ)と称し、名は初め簡、のち建。字(あざな)は初め廉卿(れんけい)、のち子基(しき)と改めた。号は淡窓がもっとも知られているが、幼時は亀林(きりん)、のちに清渓(せいけい)、苓陽(れいよう)、遠思楼(えんしろう)主人など。没後門人が諡(おくりな)して文玄(ぶんげん)先生という。商家の長男に生まれたが、家督は弟に譲って学芸と教育に専念した。
教育家としては、学塾咸宜園(かんぎえん)において3081人の門弟を養成し、そのなかには高野長英(たかのちょうえい)、大村益次郎(おおむらますじろう)、長三洲(ちょうさんしゅう)、大隈言道(おおくまことみち)などがあった。漢詩人としては、「道(い)ふことを休(や)めよ他郷苦辛多しと。同袍(どうほう)友有り自(おのずか)ら相親しむ。柴扉暁(さいひあかつき)に出づれば霜(しも)雪の如(ごと)し。君は川流(せんりゅう)を汲(く)め、我は薪(たきぎ)を拾はん」の一首で知られ、詩集『遠思楼詩鈔(えんしろうししょう)』(1837、1849)がある。徳行家としては、道徳的反省の記録である『万善簿(まんぜんぼ)』に1万6125の善を積んだ。これが18年10か月間の成果であった。儒学者としては、「老子ノ学ヲ好メリ」と告白しているが、程朱(ていしゅ)に傾いた発言が多いから、朱子学派ではなくても、朱子(朱熹(しゅき))のシンパぐらいではあったとみてよい。
[古川哲史 2016年6月20日]
『工藤豊彦著、宇野精一他監修『叢書日本の思想家35 広瀬淡窓・広瀬旭荘』(1978・明徳出版社)』▽『日本思想史懇話会編「広瀬淡窓の思想」(『季刊日本思想史19』1983・ぺりかん社)』
(田中克佳)
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江戸後期の儒者,漢詩人。名は建,字は子基,通称は求馬(もとめ)。豊後日田(ひた)の人。筑前福岡の亀井南冥(なんめい)・昭陽(しようよう)父子について儒学を学び,日田にもどって私塾咸宜園(かんぎえん)を開いた。篤実な人格と,今日のカリキュラムや成績表に相当する制度を取り入れた進歩的な教育方針とによって,咸宜園の名声はしだいに高くなり,塾生は全国から集まり,その数は延べ3000人をこえたという。
また弟の広瀬旭荘(きよくそう)とともに漢詩人としても聞こえる。その詩風は自己の感慨や実見した景をありのままに詠ずるもので,近代の個性尊重,写実主義の文学観に通ずるものがある。著書に《析玄(せきげん)》《約言》《遠思楼詩鈔》《淡窓詩話》などがある。
執筆者:日野 竜夫
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1782.4.11~1856.11.1
江戸後期の儒学者。父は幕府代官所や諸藩の御用達商人博多屋三郎左衛門貞恒。名は簡・建,字は廉卿,別号は青渓・遠思楼主人など。豊後国日田生れ。筑前国の亀井南冥・昭陽父子の塾に入ったが,結核を患い退塾して独学。1805年(文化2)儒者としてたつことを決意し,家業を弟に譲り,やがて開塾。塾生が増加するにしたがい,家塾咸宜(かんぎ)園を新築。教育方針は学歴・年齢・家格を問わず万人に門戸を開いたため,塾生はのべ総数4600人におよび,高野長英・大村益次郎・羽倉簡堂らの俊才を輩出。思想は敬天を主とし,老子や易などを含む独自のものである。著書「約言」「迂言」。
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…しかし幕末に至るまで,それだけでは生活が苦しいのが相場で,同じく漢籍読解力を必須とする医者を兼ねることが少なくなく,大名から扶持を受ける例もある。18世紀半ば以降の急激な藩校増加により,その教官となる者も増え,19世紀には広瀬淡窓のように地方にいながら整備された試験・進級制度をもつ寄宿制の塾経営に成功する者も現れた。
[存在形態]
とくに江戸時代前半には,町儒者は世人の目には往々遊芸の師匠同様に映り,大名などに仕えても,医者などと並ぶ特殊技能者として扱われるのが通例だった。…
… 政治・経済的発展のなかで,諸国の文人たちの往来も繁く,俳諧などを中心に学問・文芸も発達し,いわゆる日田文化が成立した。そうした日田文化の頂点に立つのが,豆田町の豪商博多屋に生まれた広瀬淡窓であり,彼が堀田村に開いた私塾咸宜園とその教育であった。淡窓は近代教育の原型ともいうべき手法を用い,全国から集まった4600余人の門人を育て,高野長英,大村益次郎,長三洲など逸材が輩出している。…
※「広瀬淡窓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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