渋沢栄一(読み)シブサワエイイチ

デジタル大辞泉 「渋沢栄一」の意味・読み・例文・類語

しぶさわ‐えいいち〔しぶさは‐〕【渋沢栄一】

[1840~1931]実業家。埼玉の生まれ。一橋家に仕えて幕臣となり、パリ万国博覧会幕府使節団に加わって渡欧。維新後、大蔵省官吏を経て第一国立銀行を設立。各種の会社の設立に参画し、実業界の指導的役割を果たした。

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共同通信ニュース用語解説 「渋沢栄一」の解説

渋沢栄一

渋沢栄一しぶさわ・えいいち 実業家。1840(天保11)年、現在の埼玉県深谷市で生まれた。27歳の時に後の水戸藩主徳川昭武とくがわ・あきたけに随行し、パリの万国博覧会などを見学。帰国後、明治政府の一員として国づくりに深く関わるようになった。73(明治6)年に大蔵省を辞めた後は銀行頭取などを歴任。生涯で関わった企業は500前後に上るといわれている。1931(昭和6)年、91歳で死去。2024年度上期から発行される1万円札の肖像画に決まっている。21年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公にもなった。

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精選版 日本国語大辞典 「渋沢栄一」の意味・読み・例文・類語

しぶさわ‐えいいち【渋沢栄一】

  1. 実業家。子爵。号は青淵。武蔵榛沢(埼玉県)出身。尊王攘夷運動に参加。明治二年(一八六九)新政府に登用され、金融・財政制度の制定・改正に尽力。のち実業界に転じ、第一国立銀行、王子製紙日本郵船、日本鉄道などの創立に参画。明治期の日本資本主義の発展に貢献し、社会・教育・文化事業にも尽力した。天保一一~昭和六年(一八四〇‐一九三一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「渋沢栄一」の意味・わかりやすい解説

渋沢栄一
しぶさわえいいち
(1840―1931)

近代日本資本主義の指導者。天保(てんぽう)11年2月13日、武蔵国(むさしのくに)榛沢(はんざわ)郡血洗島(ちあらいじま)(埼玉県深谷市)の豪農の家に生まれた。幕末、一時尊王攘夷(じょうい)運動の志士であったが、1864年(元治1)一橋(ひとつばし)家に仕え、慶喜(よしのぶ)が将軍を継ぐとともに幕臣になった。1867年(慶応3)幕府の遣欧使節の一員として渡欧、西欧の近代的産業設備や経済制度を見聞した。1869年(明治2)新政府の招きで大蔵省官吏に登用され、井上馨(いのうえかおる)大蔵大輔(おおくらたいふ)のもとで、重要な貨幣、金融、財政制度の制定と改革に参与した。この間『立会略則(たちあいりゃくそく)』を著して株式会社制度に関する知識の普及に尽力した。1873年退官、同時に第一国立銀行(第一銀行の前身。のち第一勧業銀行を経てみずほ銀行、みずほコーポレート銀行に統合・再編された)を創立して頭取に就任した。以後財界のリーダーとして目覚ましい活躍を示した。王子製紙、大阪紡績、東京海上、日本鉄道などをはじめ創立に関与した会社は枚挙にいとまがない。また東京商法会議所東京商工会議所の前身)、東京銀行集会所東京手形交換所などを設立するなど財界の組織化にも精力的に努めた。さらに財界の思想的指導者でもあり、実業家は国家目的に寄与するビジネスマンでなければならない(「経済道徳合一説」)ことを絶えず強調した。1915年(大正4)渋沢同族株式会社を設立し、第一銀行を中核とする渋沢財閥を形成した。翌1916年実業界の第一線から引退し、以後は主として教育、社会、文化事業に力を注いだ。

[小早川洋一]

『『渋沢栄一自叙伝』(1937・偉人烈士伝編纂所)』『土屋喬雄著『日本資本主義の経営史的研究』(1954・みすず書房)』『渋沢栄一伝記資料編纂室編『渋沢栄一伝記資料』(1955~71・竜門社)』『森川英正著『渋沢栄一 日本株式会社の創立者』(森川英正編『日本の企業と国家』所収・1976・日本経済新聞社)』


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百科事典マイペディア 「渋沢栄一」の意味・わかりやすい解説

渋沢栄一【しぶさわえいいち】

実業家。武蔵国血洗島の豪農の生れ。倒幕運動に参加したが,のち一橋家に仕え幕臣となる。1867年渡欧し新知識を吸収,維新後帰国し大蔵省に出仕,国立銀行条例制定などに活躍した。1873年退官後,第一国立銀行(第一勧業銀行),王子製紙,大阪紡績など500余の会社設立に関与し,朝鮮や中国への投資も企て,日本資本主義の発展に貢献した。1916年実業界を引退,以後は東京商科大学など実業教育機関の創設や各種の社会事業に尽力した。渋沢敬三は孫。
→関連項目大阪紡績会社郷誠之助渋沢財閥第一銀行[株]帝国劇場東急不動産[株]東京海上火災保険[株]徳川慶喜富岡製糸場日本煉瓦工場浜田彦蔵深谷[駅]古河市兵衛三野村利左衛門友愛会

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改訂新版 世界大百科事典 「渋沢栄一」の意味・わかりやすい解説

渋沢栄一 (しぶさわえいいち)
生没年:1840-1931(天保11-昭和6)

実業家。武蔵国榛沢郡血洗島村(現,埼玉県深谷市)の富農の家に生まれ,年少のころから家業に従事した。尊王攘夷論に傾倒し,一時は横浜の外国人居留地の襲撃をも計画した。1864年(元治1)一橋家に仕え,67年(慶応3)慶喜の弟昭武に随行してフランスの万国博使節団に加わり,ヨーロッパ各地を訪問して近代的社会経済の諸制度や産業施設を見聞した。このとき得た知識が,のち政府高官としてまた近代産業の指導者としての教養の基盤となった。69年(明治2)明治政府に招聘されて大蔵省に出仕,大蔵省租税司(現在の課長クラス)となり,税制の改正その他江戸時代以来の行政の改革にあたり,71年大蔵権大丞(局長級,事実上の次官)となったが,陸海軍費節約による均衡財政の主張が認められず井上馨とともに辞任。以来,野にあって革新的な近代企業の推進者としての役割を遂行する。73年第一国立銀行(のちの第一銀行)を創設し,近代的金融・信用制度の成立にあたる。ついで株式会社方式(合本主義といった)による近代企業の設立を精力的に推進した。また銀行家や実業家のための組織づくりにも尽力し,銀行集会所,手形交換所および東京商法会議所(現,東京商工会議所)などの創設にあたった。渋沢は,欧米の資本主義についての理論や思想をもたず,伝統的な儒教道徳の持主であったから,道徳・経済の合一主義をとなえ,近代企業は国家・公共のための実業でなければならないことを強調し,会社企業の生成を促進した。大正時代には,実業界から引退し,各種の社会・公共事業にひろく関係した。
渋沢財閥
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朝日日本歴史人物事典 「渋沢栄一」の解説

渋沢栄一

没年:昭和6.11.11(1931)
生年:天保11.2.13(1840.3.16)
実業界における明治大正期最大の指導者。武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)の名主の長男として生まれ,22歳のとき江戸に出て尊王攘夷運動に参加,横浜の異人館焼き打ちなどを企てたあと,京都で一橋(徳川)慶喜の家臣となる。慶喜が将軍となったとき幕臣となり,慶応3(1867)年慶喜の弟昭武に随行してパリ万博に赴き欧米を見学,帰国後徳川家と共に静岡に移住した。明治2(1969)年新政府に召されて大蔵省に入り,井上馨と共に財政制度確立に努めたが,各省の抵抗にあい,同6年大蔵少輔事務取扱のとき辞職。同年6月第一国立銀行創立に当たり総監役となり,8月開業。8年1月より同行頭取として長く経営に当たった。また7年には王子に抄紙会社(のちの王子製紙)を設立,甥大川平三郎をして技術部門を担当させた。渋沢の自身の事業は以上の2社が主で,財閥といわれるほどの規模には達しなかった。しかしその本領は財界の指導者としての活躍にあった。すなわち9年東京会議所(のちの東京商業会議所)会頭となって長期勤続したのをはじめ,東京・青森を結ぶ日本鉄道会社,最初の本格的紡績企業たる大阪紡績の創立(1881)に当たっては,株主を勧誘し人材を集めて産婆役を務めた。その後,東京ガス,帝国ホテル,北海道炭鉱鉄道,東洋汽船,京釜鉄道など重要企業の創立に当たっては発起人として旗振り役を務め,人びとは渋沢の信用によってそれに参加するようになり,財界の指導者,まとめ役の役割を果たした。「論語とソロバン」を両立させるべきだという持論は有名で『論語講話』の著書もある。明治41年には訪米実業団団長として渡米。大正9(1920)年,積年の功により,子爵を授けられた。

(中村隆英)

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20世紀日本人名事典 「渋沢栄一」の解説

渋沢 栄一
シブサワ エイイチ

明治・大正期の実業家,財界人,子爵 第一国立銀行頭取。



生年
天保11年2月13日(1840年)

没年
昭和6(1931)年11月11日

出生地
武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)

別名
幼名=栄二郎,号=青淵

経歴
武蔵国榛沢の郷士の生まれ、漢学を学び家業に従事したのち、江戸に出て尊攘派志士として活動。横浜の異人館焼討ちを計画するが果さず。のち一橋慶喜に仕え、慶応2年慶喜の将軍就任とともに幕臣となる。3年慶喜の弟昭武に随行して渡欧、西欧の近代的産業設備や経済制度を学ぶ。明治元年帰国し、静岡に日本最初の株式会社・商法会所を設立。2年大蔵省に出仕し、井上馨とともに財政制度の確立に努めたが、6年退官し第一国立銀行を設立、8〜大正5年頭取。この間、王子製紙、大阪紡績、東京人造肥料、東京瓦斯、日本鉄道など500余の会社を設立し経営、また東京商法会議所(のちの東京商業会議所)、東京銀行集会所、東京手形交換所などを組織、大正5年に引退するまで実業界・財界の指導的役割を果し、“日本資本主義の父”と呼ばれた。引退後は東京市養育院、東京商法講習所(現・一橋大学)など各方面の社会公共事業に力をそそいだ。明治33年男爵、大正9年子爵に列せらる。著書に「つねに刺激を出し続ける人になれ!」「人生の急所を誤るな!」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「渋沢栄一」の意味・わかりやすい解説

渋沢栄一
しぶさわえいいち

[生]天保11(1840).2.13. 武蔵,血洗島
[没]1931.11.11. 東京
明治・大正期の実業家,財界の指導者。生家は村名主で,農業のほか藍玉の商業も営んでいた。栄一は年少の頃から家業に従事したが,のち才幹を認められて,一橋慶喜(→徳川慶喜)に仕え,慶応3(1867)年に慶喜の弟徳川昭武に随行して渡欧した。明治維新後,明治政府に仕官し,近代的財政,金融,貨幣制度の導入に尽力した。1873年退官し,第一国立銀行の頭取となり,以後明治期を通じて民間の銀行,産業および実業家団体の育成と指導に大きな役割を演じ,関係会社は数百に上った。1916年第一銀行を除いて関係会社から退き,社会公共事業に余生を送った。福沢諭吉と並んで日本の経済近代化の最大の功労者である。

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知恵蔵mini 「渋沢栄一」の解説

渋沢 栄一

実業家。1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市で裕福な農家に生まれる。実家の畑仕事や養蚕を手伝いながら、若いころより本格的に論語を学ぶ。離郷して一橋慶喜(のちの江戸幕府15代将軍、徳川慶喜)に仕え、一橋家の家政の改善などに尽力した。27歳のとき、慶喜の実弟・昭武とともにパリ万博を訪れて欧州諸国の近代的な政治や経済、文化のありようについて造詣を深める。帰国して大蔵省に勤務した後、実業家として生涯に約500の企業設立や運営に関わり、約600の教育機関・社会公共事業の支援および民間外交に貢献した。関わった企業・組織には、日本初の銀行である第一国立銀行(現みずほ銀行)や、日本郵船、東京電力、田園都市(現・東京急行電鉄)、一橋大学、東京証券取引所などがある。1931年11月11日に91歳で死去した。2024年に刷新される1万円札の肖像画に起用される予定。

(2020-2-18)


渋沢栄一

実業家。1840(天保11)年、武蔵榛沢(現、埼玉県深谷市)の農家に生まれた。幕末期は尊王攘夷論に傾倒して倒幕運動にも参加したが、のちに徳川慶喜に仕え、幕臣となった。67年に慶喜の弟、昭武に随行して欧州を訪問し、近代的社会経済の諸制度などの知識を吸収した。明治維新後、大蔵省官吏に登用され、新貨条例や国立銀行条例制定に参与した。73年に退官し、第一国立銀行を開業して頭取となった。以後、民間の銀行や企業など、500以上の組織の設立に関与し、日本資本主義の発展に貢献した。1916年に実業界を引退し、以後は教育や文化事業などに尽力した。31年、91歳で死去した。2019年に日本の紙幣が刷新された際、一万円札の肖像に採用された。

(2019-4-11)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「渋沢栄一」の解説

渋沢栄一
しぶさわえいいち

1840.2.13~1931.11.11

明治・大正期の実業家。武蔵国の豪農の家に生まれ,幕臣をへて明治政府に出仕。パリで学んだ知識をいかし,新貨条例・国立銀行条例など諸制度改革を行う。日本にはじめて合本組織(株式会社)を導入。民間経済界に入ったのちは道徳経済合一説を唱え,第一国立銀行・王子製紙・大阪紡績・東京瓦斯など500社の設立や商業会議所・銀行集会所などの経済界の組織作りに関与し,実業界の指導的役割をはたした。また社会・文化・教育の幅広い分野で社会公共事業に尽力した。国際関係では民間経済外交を積極的に展開し,日・米・中3国が協調できる枠組み作りに奔走した。日米関係委員会・日華実業協会・太平洋問題調査会などの中心的存在であった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「渋沢栄一」の解説

渋沢栄一 しぶさわ-えいいち

1840-1931 明治-大正時代の実業家。
天保(てんぽう)11年2月13日生まれ。渋沢敬三の祖父。生家は武蔵(むさし)榛沢(はんざわ)郡(埼玉県)の名主。一橋家につかえ,幕臣となる。慶応3年徳川昭武にしたがって渡欧し,西洋の近代産業や財政制度を見聞。維新後,大蔵省にはいり,財政・金融制度などを立案。明治6年退官後,第一国立銀行のほか,王子製紙,大阪紡績などの設立に関与。引退後は社会事業につくした。昭和6年11月11日死去。92歳。号は青淵。著作に「徳川慶喜公伝」など。
【格言など】正しい道徳の富でなければ,その富を永続することができぬ(「論語と算盤(そろばん)」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「渋沢栄一」の解説

渋沢栄一
しぶさわえいいち

1840〜1931
明治〜昭和期の実業家
武蔵(埼玉県)の豪農出身。幕臣となり幕末に渡欧。新政権成立後は大蔵省に出仕,1873年退官後は第一国立銀行・王子製紙など数多くの近代企業の設立に参画し,渋沢財閥を形成。実業界に指導的役割を果たした。晩年は社会事業にも尽力し,済生会・慈恵会活動に参与,協調会を創設。また東京商科大学(現一橋大学)創設など実業教育にも貢献した。

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367日誕生日大事典 「渋沢栄一」の解説

渋沢 栄一 (しぶさわ えいいち)

生年月日:1840年2月13日
明治時代-昭和時代の実業家;財界人;子爵
1931年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の渋沢栄一の言及

【王子製紙[株]】より

…日本最大の製紙会社。1873年渋沢栄一が三井組,小野組,島田組を勧誘して共同経営の製紙会社を設立したことに始まる。最初は社名を〈抄紙会社〉と称し,資本金15万円。…

【渋沢財閥】より

渋沢栄一・敬三の経営支配下にあった事業群を渋沢財閥とよぶ。渋沢栄一は1873年大蔵省を退官し,第一国立銀行(のちの第一銀行)総監役に就任,ついで75年から1916年まで頭取を務めながら,日本資本主義の指導者かつ財界の世話役として,多数の近代産業企業の設立・育成に関与した。…

【第一銀行[株]】より

…国立銀行条例にもとづき,第一国立銀行として1873年(明治6)7月,資本金244万円余,渋沢栄一総監役(頭取)で設立された日本最初の銀行で,一般銀行業務のほか国立銀行紙幣を発行し官金出納事務取扱いもあわせ営んだ。とくに韓国においては,1909年10月韓国銀行設立まで中央銀行的役割を果たした。…

【田園調布】より

…多摩川に臨み,神奈川県に対する。1889年成立の調布村の一部であったが,大正時代に導入された田園都市運動の一環として,渋沢栄一が1918年に田園都市株式会社を設立,住宅地を造成した際に田園の2字を冠して田園調布とした。現在の東急東横線・目蒲線田園調布駅西口の駅前広場を中心に放射路,環状路を設置し,一区画100~500坪(330~1650m2)の上・下水道完備の高級住宅地として売り出された。…

【富岡製糸場】より

…富岡の地が選ばれたのは優良な原料繭と豊富な水に恵まれていたためといわれる。政府内で立案・実施を担当したのは大蔵省の渋沢栄一と民部省(のち大蔵省)の尾高惇忠であり,尾高は76年まで初代所長をつとめた。尾高は全国から伝習工女を募集しフランス人教婦の下で器械繰糸技術を習得させ,彼女らは帰郷後各地の器械製糸場の発展を支えた。…

【フランス】より

…65年にはメルメ・ド・カションに横浜フランス語学校を開かせ,67年のパリ万国博覧会には幕府に日本館を出させるとともに,将軍慶喜の弟,徳川昭武をフランスに留学させた。この時の随員,渋沢栄一はパリで近代商業を見聞し,のちに日本経済の大立者となった。
[近代]
 明治維新でロッシュの親幕政策は破綻したが,日仏協力の路線は敷かれていた。…

※「渋沢栄一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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