世界大百科事典(旧版)内の《イタリアーナ百科事典》の言及
【ジェンティーレ】より
…1925年にファシズムを支持する知識人宣言の起草者となり,これに反発して反ファシズム知識人の声明を出したクローチェと対立した。ファシズム体制のもとで《イタリアーナ百科事典》の編集責任者,イタリア学士院長などの要職を占めてファシズムの文化政策に深くかかわった。44年レジスタンス闘争の組織である愛国闘争団の一員に暗殺された。…
【百科事典】より
…ルーズリーフ・スタイルをとったアメリカの《ネルソン百科事典Nelson’s Perpetual Loose‐leaf Encyclopaedia》12巻(1909),図解記述を採用したドイツの《ドゥーデン百科事典》(1935)などである。またG.ジェンティーレ編集の《イタリアーナ百科事典Enciclopedia italiana》(1929‐39),《ソビエト大百科事典》(1926‐47)のように,前者は36巻,後者は65巻という膨大なものが続出したのも特徴である。【樺山 紘一】
【イスラム世界】
イスラム世界の百科事典を語る前に,イスラムの学問の流れを概観しておく。…
【ファシズム】より
…民衆の同意の獲得と並んで,知識人の同意の獲得も試みられた。〈イタリア・アカデミー〉をはじめ各種の研究機関が創設されたが,重要なのは《イタリアーナ百科事典Enciclopedia Italiana》の刊行である。《百科事典》はファシズムの一大文化事業として,29年から37年にかけて全35巻が刊行されたが,編集の中心となったジェンティーレは,事典項目の執筆を通じて知識人とファシズムの結びつきが深まることを期待したのである。…
※「《イタリアーナ百科事典》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」