世界大百科事典(旧版)内の女性社会政治同盟の言及
【パンクハースト】より
…エメリン・パンクハーストの長女。1903年に創設された戦闘的婦人参政権団体〈女性社会政治同盟〉の事実上の独裁的指導者。投獄を逃れて1912年以後はパリで作戦指揮に当たり,母と彼女を信奉する少数精鋭の〈サフラジェット(婦人参政権論者)〉による放火などのゲリラ戦術を展開。…
【パンクハースト】より
…1879年,急進主義者の弁護士リチャード・パンクハーストと結婚。夫と死別(1898)後,救貧委員や戸籍吏などを務めるが,1903年に娘らと婦人参政権獲得を目ざして〈女性社会政治同盟Women’s Social and Political Union〉を組織。まもなくロンドンに本部を移し,従来の穏健派の組織とは異なる種々の戦闘的ゲリラ戦術を展開し,衆目を引きつけた。…
【パンクハースト】より
…エメリン・パンクハーストの次女。1903年創設の婦人参政権団体〈女性社会政治同盟〉の一支部〈イースト・ロンドン連盟〉を率いる。母と姉の指導する運動はしだいに初期の労働者階級とのつながりを断ち切っていったが,彼女は終始一貫社会主義を奉じて,ロンドンの下層階級女性の間で組織的な活動を続け,のち姉により同盟を放逐された。…
【婦人参政権運動】より
…そして同年,女性は地方自治体の選挙権を,70年に教育委員会の選挙権を獲得した。 婦人参政権に対する政府の頑迷な姿勢が続くなかで,運動は二つに分裂し,97年にはM.G.フォーセットを中心に〈婦人参政権協会全国同盟National Union of Women’s Suffrage Society(NUWSS)〉が,1903年にはE.パンクハーストとその娘クリスタベルが指導する〈女性社会政治同盟Women’s Social and Political Union(WSPU)〉がマンチェスターに結成された。前者の女性はサフラジストsuffragistとよばれ,穏健な運動を,後者はサフラジェットsuffragetteとよばれ,戦闘的運動を展開した。…
※「女性社会政治同盟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」