世界大百科事典(旧版)内のÁrpádの言及
【ハンガリー】より
…彼らがその先祖の故郷であるウラル山脈中・南部付近からカルパティア(カルパチ)山脈を越えてハンガリー盆地(当時のパンノニア)に住みついたのは895年ないし896年のことである。このとき定住したのは7部族で,相互に連盟関係にあり,全部族の長としてアールパードÁrpád(?‐907ころ)を選出した(アールパード朝)。定住後ハンガリー人は西欧へ進出したが,955年にドイツ王オットー1世の軍に敗れ,以後先住のスラブ人から農耕を学びつつ,ハンガリー盆地での国家建設に努めた。…
【マジャール人】より
…このとき密接な関係のあったオノグルOnogur族の名前から,外国語での〈ハンガリー人〉(スラブ語系のvenger,ドイツ語のUngar,フランス語のHongrois,英語のHungary)が出ている。マジャール人は9世紀にはドニエストル川とドン川の間へ移り,895‐896年に族長アールパードÁrpád(?‐907ころ)に率いられて,カルパチ盆地(ハンガリー盆地)に入り,独自の国家を建てた。このときのマジャール人は,7部族で40万~50万人とされている。…
※「Árpád」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」