《脱落者》(読み)だつらくしゃ

世界大百科事典(旧版)内の《脱落者》の言及

【プドフキン】より

…《母》の製作中に〈モンタージュ〉の理論的体系化に着手し(のち1928年にこれを改訂したものが《映画監督と脚本論》としてベルリンで出版された),28年,まだトーキーを製作していなかったソビエトでエイゼンシテイン,アレクサンドロフと連名の〈トーキーに関する宣言〉を発表して,新しい映画形式の進むべき道は映像と音の対位法的処理にあることを示した。その後,ハンブルクの造船労働者の闘争を描いた初のトーキー《脱落者》(1933)などをつくるが,政府の芸術政策の路線転換に伴って〈形式主義〉と批判され,〈芸術と政治〉の問題を提起。41年に《スウォーロフ》で,47年に《ナヒーモフ提督》でスターリン賞を受賞,53年にはレーニン勲章を授けられる。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」