世界大百科事典(旧版)内のアカデミー・デュ・パレの言及
【アカデミー】より
… 17世紀以後,アカデミーはパトロンという個人の手を離れて,国家権力と結びつく。サロン文化の素地があるフランスでは,イタリア・ルネサンスの影響の下に,すでに16世紀に国王シャルル9世を庇護者に仰ぎ,詩と音楽のみやびを尊ぶアカデミー・デュ・パレAcadémie du Palaisなどの伝統があったが,17世紀に入って絶対王政の基盤強化の必要から,国家が直接アカデミーを組織するという新しい事態を生み出した。リシュリューが創立したアカデミー・フランセーズ(1637),マザランによる王立絵画・彫刻アカデミー(1648),ついでコルベールによる碑文・文芸アカデミー(1663),アカデミー・デ・シアンス(1666),音楽アカデミー(1669)などは,いずれもフランス国家公認の学術団体で,フランス語の整備,フランス文化の向上,科学技術の発展といった文化政策の一翼を担わされている。…
※「アカデミー・デュ・パレ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」