世界大百科事典(旧版)内のアリオウィストゥスの言及
【ガロ・ロマン時代】より
…しかしガリア属州のローマ人口の増大と過酷な植民地経営とがガリア人を圧迫してその反乱を招き,前80年のポンペイウス,前61年のピソおよび前58‐前51年のカエサルのガリア遠征を要した。カエサルはスイスからガリア侵入をうかがうヘルウェティイ族とアリオウィストゥスAriovistus指揮下のゲルマン族に戦勝して中部ガリアを制したが,反ローマの旗下に全ガリアの諸部族を結集したウェルキンゲトリクスの反抗に遭い,前52年ころこれを征した。カエサル支配下のガリアでは,彼はポンペイウスとの戦いを遂行するため,ガリア人に広範な自治権を創設し,またナルボンヌとアレラテ(アルル)とには老兵による政治的・軍事的植民をはかり,これらを契機にガリアのローマ化は急速に進展した。…
【ゲルマン人】より
…また南方に向かっては,前113‐前101年にかけ,ユトランド半島から出た前述のキンブリ,テウトニの両族が,ケルト人が住んでいたガリア,イベリア半島の各地を転々と移動し侵寇したことがある。さらにまた前71年には,スエビ族Suebiの長アリオビストAriovist(生没年不詳,ラテン名アリオウィストゥスAriovistus)が一族をひきいてライン川上流を越えガリアに侵入したが,やがてカエサルの軍隊により撃退された。 こうしてローマの盛時といわれるアウグストゥス帝の時代に入ると,ローマはエルベ川とその支流モルダウ川から,ドナウ川を結ぶ線まで,帝国の境界を広げようとしばしば兵を出した結果,ライン,エルベ両川間のゲルマン諸族は,しばらくローマとゆるい従属関係を保ち,その間だけは大きな紛争はなかった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」