世界大百科事典(旧版)内の《ウーリエル・アコスタ》の言及
【グツコー】より
…この頃,彼は傾向小説《疑う女ワリー》(1835)で宗教的タブーに挑戦し(後年,そのために4ヵ月間投獄される),他方では,ウィーンバルクとともに注目すべき文芸誌《ドイッチェ・レビュー》を企画するが,ドイツ連邦議会による青年ドイツ派の全面的禁止令(1835年12月)により,彼らの運動は壊滅する。三月革命以降も,グツコーは動揺しつつも左翼小市民的立場にとどまり,知識層とヒューマニズムの問題を主題とする悲劇《ウーリエル・アコスタ》(1847)や喜劇《タルチュフの原型》(1844)などの秀作を書いた。小説の分野でも多産な作家であり,とくにフランスの作家ウジェーヌ・シューを手本にして,同時進行形式の長編小説を開拓したが(《精神の騎士たち》1850‐51,《ローマの魔術師》1858‐61),その膨大さと味気ない文体のためか,ほとんど今日では読まれない。…
※「《ウーリエル・アコスタ》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」