世界大百科事典(旧版)内のエチオピア人民革命党の言及
【エチオピア】より
…しかし,マルクス主義的社会主義を標榜する革命軍事政府の指導部内では当初から権力闘争が絶えず,臨時軍事行政評議会議長はアマン・アンドム中将(1974年11月粛清)からテフェリ・ベンティ(1977年2月粛清)へ,そしてメンギストゥ・ハイレ・マリアム(1977年2月就任)へと変わった。また左派であるエチオピア人民革命党(EPRP)や右派であるエチオピア民主同盟(EDU)のテロ攻撃,ゲリラ攻撃も一時さかんであった。また前述のエリトリアの解放勢力や,隣国ソマリアに支援された西ソマリア解放戦線(WSLF)によるオガデン地域解放のための反政府武装闘争も続き,革命軍事政府は苦境におかれた。…
※「エチオピア人民革命党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」