世界大百科事典(旧版)内のエリツィン,B.N.の言及
【ゴルバチョフ】より
… しかし89年の東欧革命や,ソ連の民族共和国で台頭する民族主義・〈主権〉要求と,これに対抗する保守派の抵抗も強まるなか,新連邦条約を締結しようとするものの(1991年8月),反対派のクーデタにあった。この失敗ののち,実権はロシアのエリツィン大統領などロシア共和国側に移るが,ゴルバチョフはソビエト連邦共産党の解散を勧告し,書記長も辞任した。その後,新連邦を維持しようとしたが,12月のウクライナ独立の国民投票後,エリツィンらはソ連崩壊につながる独立国家共同体(CIS)の結成を推進,ゴルバチョフは12月25日ソ連邦大統領を辞任した。…
【ロシア連邦】より
…議会軽視および任命制という統治スタイルは,〈過渡期における権威主義の不可避性〉という論理で正当化されたが,あたかもそれ自体が〈民主的〉であるかのレトリックも併用されたため,〈民主主義〉シンボルの混乱が甚だしくなった。 こうして1992‐93年の時期には,新しい政治制度形成をめぐり激しい政治闘争が繰り広げられ,それは93年秋のエリツィンによる超法規的議会廃止と武力衝突で頂点に達した。衝突後の非常時的体制のもとで,大統領令の連発によって新しい政治制度の骨格が定められ,93年末の憲法採択で一つの決着をみた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」