世界大百科事典(旧版)内のお多賀さまの言及
【多賀大社】より
…《新抄格勅符抄》に,766年(天平神護2)神封6戸,摂社山田神社へ5戸,同日向神社へ2戸とあり,延喜の制で小社であるが,いつしか延命長寿の神として信仰され,鎌倉時代に犬上郡の総鎮守とされるとともに,神主が御家人として幕府の保護もうけた。元弘の変では亀山上皇の皇子守良親王より賊徒平定祈願をうけ,室町時代社僧の活躍とともに,〈お伊勢参らばお多賀へ参れ,お伊勢お多賀の子でござる〉〈お伊勢七度(ななたび),熊野へ三度,お多賀さまへは月参り〉といわれるほどの衆庶の信仰をあつめ,戦国武将の多くも寄進したが,豊臣秀吉は生母の病気平癒祈願のあと,その礼として米1万石を奉納,徳川幕府も朱印領350石を寄進,彦根藩主井伊氏も147石余の黒印領を寄せた。社殿は1638年(寛永15)幕府の命による造営が完成したが,安永,天明の2度の火災にあい,1805年(文化2)仮造営のあと,1932年再建。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」