世界大百科事典(旧版)内のカリストゥスの言及
【ウォルムス協約】より
…1122年,ドイツの叙任権闘争を終結させるため,神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世とローマ教皇カリストゥス2世CallistusII(在位1119‐24)との間に結ばれた政教条約。皇帝の特許状と教皇のそれからなり,理論的にはシャルトルのイウォIvo(1040ころ‐1116)による教権(司牧権)と俗権(教会領に対する世俗的支配権)の概念的分離に基づく。…
【ユダヤ人】より
…キリスト教徒にとってユダヤ教徒は,イエス殺しの罪深き人であることによってイエスの教えのまことを証明する生き証人であり,したがって彼らの信仰を寛恕し,彼らの生命を維持し,その宗教儀式,墓地,シナゴーグを保護することが必要である,というのであった。この原則はその後の公会議でも繰り返し確認され,さらにカリストゥス2世(在位1119‐24)のユダヤ教徒保護教書で明記されるにいたった。ユダヤ教徒に対しその意に反し改宗を強要することを禁じ,彼らを殺傷し,金銭を奪い,奉仕を強い,宗教儀式に介入し,墓地を荒らすなどの行為を厳しく戒めたこの保護教書は,15世紀半ばまで繰り返し教皇によって確認された。…
【ラテラノ公会議】より
…ローマのラテラノ宮殿に召集された五つの公会議。(1)第1回(1123) カリストゥス2世Callistus IIによって召集された西方最初の世界教会会議で,その前年同教皇と皇帝ハインリヒ5世との間で締結されたウォルムス協約の承認を求めたもの。(2)第2回(1139) 教会改革のためインノケンティウス2世Innocentius IIによって召集され,アナクレトゥス2世Anacletus IIの離教やブレシアのアルノルドゥスArnoldusの教義に対し非難決議を行った。…
【ボルジア家】より
…スペインのアラゴン地方の町ボルハ(イタリア語化してボルジアとなる)の出自で,13世紀前半アラゴン王のレコンキスタ軍の騎士やバレンシア地方の貴族のなかにその名を見いだす。最初にイタリアに足を踏み入れたのはアルフォンソ(1378‐1458)で,コンスタンティノープル陥落前後のヨーロッパの危機の時代に,バレンシア司教,アラゴン王顧問官,枢機卿に順次昇進し,イタリア入国12年目の1455年教皇位(カリストゥス3世)につく。このときすでに77歳で多くをなしえなかった。…
※「カリストゥス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」