世界大百科事典(旧版)内のカーミルの言及
【アイユーブ朝】より
…サラーフ・アッディーンの死後,王国は一族の間で分割され,ダマスクス,アレッポ,ディヤルバクルでは,それぞれ半独立の政権が樹立された。第5代のカーミルal‐Kāmil(1177か80‐1238)はこれらの地方君主を抑え,かろうじて王国の統一を保ったが,第7代のサーリフが購入したマムルーク軍のクーデタによって1250年に王朝は滅びた。 軍隊の主力はクルド人とトルコ人マムルークによって構成され,これらの軍人には建国当初からイクターが授与された。…
【十字軍】より
…その間に起こったキプロス王国成立(1192),いわゆる〈方向転換十字軍〉という悪評の高い第4回十字軍(1202‐05)によるギリシアのラテン帝国創設(1204),第5回十字軍末期のカイロ攻撃失敗(1221)などはいずれもその実例である。また1228‐29年には親イスラム的な神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が教皇から破門をうけた身で聖地に渡り,アイユーブ朝の第5代スルタン,カーミルとの友好関係を利用して〈無血十字軍〉により一時エルサレムの返還を勝ちとった。この時期に西欧の海外進出熱や身分的上昇運動は鎮静化に向かい,それまでの信仰と領土的野心を内容とした十字軍思想は変質し,教皇と神聖ローマ皇帝の対立を軸とする政治的利害が十字軍の動機に強く反映するようになった。…
※「カーミル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」