世界大百科事典(旧版)内のグイニツェリ,G.の言及
【イタリア文学】より
…すでに〈シチリア派〉はプロバンスの宮廷恋愛詩を取り入れ,〈愛〉についての論議を俗語詩のなかに繰り返した。ジャコモ・ダ・レンティーニは十四行詩のなかで〈愛とは喜びのあまり/心からあふれでる願い〉と歌い,これを受けて〈清新体〉派の先駆者グイード・グイニツェリGuido Guinizelli(1230‐76)は〈やさしい心につねに愛は宿る〉と書いた。けれどもダンテは《神曲》煉獄編第11歌において,このグイードから別のグイード(カバルカンティ)が詩の栄光を奪い,さらに両者を蹴落とす者(ダンテ自身)が現れたことを述べている。…
【キリスト教文学】より
…また〈武勲詩〉中の傑作である《ローランの歌》(11~12世紀初め)も十字軍の理想を掲げ,教会の宣伝である点において,すぐれて宗教的な作品といえよう。 これにつぐ時代はイタリアを中心とするダンテやペトラルカの活躍をみるが,その道程には,この清新の歌風をイタリアへもたらしたグイード・ダレッツォ,グイニツェリGuido Guinizelli(1230から40‐76)らがあった。グイードはソネット詩の作者で,中年に妻子を捨て修道会にはいった者,宗教的あるいは倫理的な主題を用い,グイニツェリも哲学詩,思想詩をよくして,ダンテの尊敬を得ている。…
【清新体】より
…この呼称は青年時代この流派に加わったダンテが《神曲》の中で用いたもので(煉獄篇第24歌),シチリア派や旧世代のトスカナの詩人から自分たちの詩風を区別する〈新しい優美な様式〉を指していったものである。この流派の創始者とされるのはボローニャ出身の詩人グイニツェリ(1240ころ‐76)であり,ダンテのほか,G.カバルカンティ,チーノ・ダ・ピストイア(1270ころ‐1337ころ)らが代表的詩人である。同派の新しさは言葉(トスカナ語)の精錬を通じて心地よい響きを得ようとする文体的側面にあると同時に,その中心的主題であった〈愛〉の概念の中にも認められる。…
【ダンテ】より
…イタリア最大の詩人。長編叙事詩《神曲》を著して,ヨーロッパ・ラテン中世の文学,哲学,神学,修辞学などの伝統を総括し,同時に踵(きびす)を接して現れたペトラルカ,ボッカッチョと並んで,ルネサンス文学の地平をきりひらいた。 フィレンツェの小貴族の家柄に生まれ,父はアリギエーロ・ディ・ベリンチョーネ,母はベッラ,祖父の祖父カッチャグイーダは第2回十字軍に加わって戦死している。祖父ベリンチョーネと父アリギエーロはフィレンツェとプラトで金融業を営んでいた。…
※「グイニツェリ,G.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」