世界大百科事典(旧版)内のグリアソン,J.の言及
【アニメーション映画】より
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[脱ディズニーとイギリスのアニメ]
50年代には,ディズニー・スタイルから脱却しようとする動きが世界各国のアニメーション映画を活性化した。とくにイギリスでは,ドキュメンタリー映画の大家J.グリアソンが主宰する郵政局(GPO)映画班でその傾向の作品が積極的に試みられ,そこから,カメラを使わずにフィルムにじかにかくことによって映像を作った最初の抽象映画作家レン・ライの《カラー・ボックス》(1935)や,ライの影響を受けたN.マクラレンの短編《恋は翼に乗って》(1938)が生まれた(マクラレンは,この後カナダに渡って実験アニメの巨匠となった)。また,〈何も固有のスタイルにとらわれることはない。…
【カナダ】より
…1900年にカナディアン・パシフィック鉄道会社が映画部を設置してカナダの観光映画を製作し始めたときからカナダの記録映画の歴史が始まる(1965年のバスター・キートン主演の短編《キートンの線路工夫》はその観光映画のパロディになっている)。39年国立映画局(NFB)は,イギリスの記録映画の創始者として知られるジョン・グリアソンを所長として招き,グリアソンの指揮の下に活発な製作活動を開始,第2次大戦中に《カナダは負けず》《戦う世界》のスチュアート・レッグ(1910‐ )をはじめ数々の記録映画作家が輩出して,世界の記録映画の中心的存在になった。と同時に,グリアソンの下で,ノーマン・マクラレン,ジョージ・ダニングといった実験アニメーション映画の鬼才を生み,45年にグリアソンが去ったあとも,国立映画局はドキュメンタリーとアニメーションの創作活動の中心になった。…
【カバルカンティ】より
…ブラジル出身の映画作家,プロデューサー,シナリオライター,美術監督。世界の映画史に残した足跡は大きく,まずフランスでは1920年代に,マルセル・レルビエ監督《人でなしの女》(1923),《生けるパスカル》(1925)の美術・セットデザイナーおよびアバンギャルド映画(《時の外何物もなし》1926,《港町にて》1928,等々)の監督として活躍,次いでイギリスでは,ロンドンのGPO(イギリス郵政局)映画班でジョン・グリアソンの片腕としてプロデューサー兼監督になり,《コール・フェイス》(1935),《北海》(1938)といった作品を撮って1930年代のイギリスのドキュメンタリー映画運動の一翼を担い,40年代にはイーリング撮影所でマイケル・バルコンの共同プロデューサー兼監督として,のちの〈ハマー・プロ〉の作品を予告するようなオムニバス構成の怪奇映画《真夜中》の〈もっとも身の毛のよだつ〉エピソード(《腹話術師のダミーとクリスマス・パーティー》)やディケンズ原作の《悪魔の寵児》(1946)をみずから撮る一方,イギリスの映画音楽の基礎をつくり(例えばベンジャミン・ブリテンといった現代音楽の作曲家を初めて映画に導く等々),49年には帰国してブラジル映画の復興に貢献し(1953年のカンヌ映画祭でアクション映画賞,音楽賞を受賞してブラジル映画の名声を国際的に高めた《野性の男》の製作に参加),その後,50年代半ばに再びヨーロッパに渡って,東ドイツ,オーストリア,イタリアで監督として活躍。東ドイツ映画《プンチラ親方と徒弟のマッティ》(1955)は,原作者のベルトルト・ブレヒトと共同で脚色。…
【極北の怪異】より
…映画史上初めて〈ドキュメンタリーフィルム(記録映画)〉と名付けられた画期的な名作。命名者は,〈ドキュメンタリーとは現実のできごとを創造的に処理する映画である〉と定義した,イギリス,カナダのドキュメンタリーの育ての親であり理論家であるジョン・グリアソンで,実際,ロケーションから生まれたストーリーのほうがシナリオによるストーリーよりも真実であり,自然の人間のほうが俳優よりも真実の演技を見せるというグリアソンの理論を証明した最初の作品であった。〈劇映画が空疎に見える真実の魅力〉と評されたこの長編記録映画の第1作によって,フラハティは〈ドキュメンタリー映画の父〉と呼ばれるまでに至る。…
【戦艦ポチョムキン】より
…また,1950年には助監督だったグリゴリー・アレクサンドロフの手でE.クリオウコフの音楽を入れたサウンド版がつくられたが,エイゼンシテインが公認した音楽は1926年のベルリンのプレミアのためエドムント・マイゼルが作曲したものだけであり,それものちにこの伴奏音楽つきの自作を見て〈映画がオペラになった〉と不満を述べたと伝えられている。イギリスのドキュメンタリー映画の創始者ジョン・グリアソンがこの映画の英語版をつくり,イギリスのドキュメンタリー運動は《戦艦ポチョムキン》の最後の巻から始まったとまでいわれている。【柏倉 昌美】。…
【ドキュメンタリー】より
…文書,証書を意味するラテン語documentumを語源にもつこの言葉は,1920年代に,イギリスの記録映画作家グリアソンJohn Griersonによって用いられた。ドキュメンタリー・フィルムを広くカメラによる〈事実の記録〉と考えれば,L.リュミエールの最初の映画《工場の出口La sortie des Usines》(1895)が,すでにその起点であり,映画の記録性自体がドキュメンタリーの物理的基盤であるといえる。…
【ドキュメンタリー映画】より
…日本では〈記録映画〉という訳語も一般化している。映画での〈ドキュメンタリー〉という呼称は,そもそもアメリカの記録映画作家ロバート・フラハティがサモア島の住民の日常生活を記録した映画《モアナ》(1926)について,イギリスの記録映画作家であり理論家であるジョン・グリアソンJohn Grierson(1898‐1972)が,1926年2月の《ニューヨーク・サン》紙上で論評したときに初めて使ったことばで,それまでは〈紀行映画travel film(travelogue)〉を指すことばだったフランス語のdocumentaireに由来している。広義には,劇映画に対して,〈事実〉を記録する〈ノンフィクション映画〉の総称で,ニュース映画,科学映画,学校教材用映画,社会教育映画,美術映画,テレビの特別報道番組,あるいはPR映画,観光映画なども含めてこの名で呼ばれるが,本来は(すなわちグリアソンの定義に基づけば),〈人間の発見と生活の調査,記録,そしてその肯定〉を目ざしたフラハティから,〈映画は生きものの仕事〉であり〈事実や人間との出会い〉であるという姿勢を貫いてカメラを対象のなかに〈同居〉させた《水俣》シリーズ(1971‐76)の土本典昭(つちもとのりあき)(1928‐ )や《三里塚》シリーズ(1968‐73)の小川紳介(1935‐92)らにつらなる方法と作品,すなわち〈実写〉とは異なる〈現実の創造的劇化〉が真の〈ドキュメンタリー〉である。…
※「グリアソン,J.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」