世界大百科事典(旧版)内のコバドンガの戦の言及
【アストゥリアス】より
… 前1000‐前500年に半島へ入ってきたケルト人がアストゥリアスに入植し,ローマ帝国の支配には半島内で最後まで抵抗した。さらに,8世紀にはイスラム教徒が半島へ侵入したが,最後までアストゥリアスを占領できず,逆に718年,コバドンガの戦で敗北した。この戦いの後,西ゴート王国の正統な継承者という意識の下に,ペラヨ王に始まるアストゥリアス王国が成立し,国土回復戦争の拠点となった。…
【国土回復戦争】より
…つまり,西ゴート難民の復讐心と未開社会特有の反発心がひとつに融合し,イスラム教徒の半島支配に対する息の長い抵抗運動を生みだす結果となった。これの象徴的事件として知られるのがコバドンガの戦(722)で,このとき司令官を戦死で失ったイスラム軍は半島侵入以来初めてその目標を達成できずに撤退,しかも途中で山崩れに遭って多くの損害を被った。戦い自体は大したできごとではなく,反乱者の勝利も直ちにその後の事態を決めるものではなかった。…
【ペラヨ】より
…初代アストゥリアス王。在位718‐737年。西ゴート系と推定される。西ゴート王国倒壊後,イスラムの支配外に放置されていたアストゥリアス地方へ逃れ,初期国土回復戦争の主体となる同地域土着のアストゥリアス・カンタブリア人とともに反イスラム運動を展開する。722年,コバドンガCovadongaの戦でイスラム軍を破り,国王に選出される。同時にカンガス・デ・オニスに都し,アストゥリアス王国の基礎をつくる。【関 哲行】…
※「コバドンガの戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」