世界大百科事典(旧版)内のコマンの言及
【ペチェネグ】より
…8世紀にはアルタイ山脈,バルハシ湖方面,9世紀にはボルガ,ウラル両川の河間地帯に居住したが,889年東方からのオグズ,ハザル族の圧迫を受けて黒海北岸地帯に移住,この地を本拠に915年ころから西方のロシア領にしばしば侵入,968年にはキエフを包囲し,972年にはキエフ侯スビャトスラフ・イーゴレビチを捕らえて殺害するなどの猛威をふるった。しかし11世紀の半ば,東方からのコマン(クマン)族(ポロベツ)の圧迫を受けると本拠を黒海西岸のドニエプル,ドナウ両川方面に移し,1050年,78年にはビザンティン帝国の要衝アドリアノープル(現,エディルネ)を包囲するなど,しばしば同帝国内に侵入して多大の脅威を与えたが,91年,マリツァ川下流域でビザンティン軍に完敗を喫し,それ以後,一つの国家としての立場を失った。つづく12~13世紀,ロシア,コマン,ビザンティン,マジャール,モンゴルなどの諸民族に吸収・同化され,徐々に一つの民族としての姿を史上から没した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」