コミュナル裁定(読み)こみゅなるさいてい

世界大百科事典(旧版)内のコミュナル裁定の言及

【コミュナリズム】より

… このようなイギリスによる民族分断策の最初の顕著な例が1905年の総督カーゾン下でのベンガル分割であり,続いて09年のモーリー=ミントー改革(インド参事会法)による帝国立法参事会選挙でのムスリム選挙区の設置であった。この宗教別分離選挙は19年のインド統治法において拡大され,またガンディー指導下で転換された第2次サティヤーグラハ闘争の時期に出されたイギリス首相R.マクドナルドのいわゆる〈コミュナル裁定Communal Award〉(1932年8月)は宗教別分離議席のほかに婦人や〈被抑圧階級(不可触カースト)〉の分離選挙をも設定していた。これに対してはガンディーの断食によって一定の手直しが加えられたものの,基本的にはこの選挙制度は35年統治法の中に成文化され,これが47年8月のインド・パキスタン分離独立への一つの法的な水路を準備したともいえる。…

※「コミュナル裁定」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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