世界大百科事典(旧版)内のシャルグラン,J.の言及
【アンピール様式】より
…古代美術の賛美者であり,壮大さと古典的格調を望んだナポレオンのもとで,絵画における新古典主義が隆盛を見たのと同様,建築,都市計画においても,壮大さと秩序に対する指向があらわれる。ナポレオンの官館を建築したP.F.L.フォンテーヌ,それを助けたC.ペルシエ,エトアール広場の凱旋門を設計したシャルグランJean Chalgrin(1739‐1811)たちが代表的な建築家である。ナポレオンは,さらにパリのみならず,彼の帝国の版図のあらゆる都市で壮大な計画を立案せしめているが,実際には,パリのリボリ街などの例を残すのみで,彼の没落後,ロシアのアレクサンドル1世によるペテルブルグ造営などに,ナポレオンの夢の実現を見ることができる。…
【エトアール凱旋門】より
…アウステルリッツでの戦勝後,ナポレオンによって,当時パリ市の境界をかたちづくるエトアールの丘に構想される。旧徴税門を取り壊し,1806年にシャルグランJean‐François Chalgrin(1739‐1811)が設計開始。その後ナポレオン失脚により計画は大きく変わり,建築家も交代し,七月王政期の36年にようやく完成した。…
※「シャルグラン,J.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」