世界大百科事典(旧版)内のシャンボール伯の言及
【オルレアン王党派】より
…第二帝政下においては,オルレアン王党派は分裂し,帝政に荷担する者もいたが,指導層はナポレオン3世に対する協力を拒否した。70年9月第二帝政が崩壊した時点では,オルレアン王党派はルイ・フィリップの孫のパリ伯Louis‐Philippe Albert d’Orléans,comte de Paris(1838‐94)を王位につけようとしたが,オルレアン王党派の中の中央左派はティエールに従って共和政を支持し,他方,中央右派も73年に正統王朝のシャンボール伯Henri V de Bourbon,comte de Chambord(1820‐83)が国旗として正統王朝の白旗を主張したため両王党派の合体による王政復古の企図を放棄した。これ以後オルレアン王党派は議会においても勢力を失い,独立した政治党派としては衰退した。…
【正統王党派】より
…そのため彼らは政治の舞台から降りて静観の態度をとった。1870年に第二帝政が崩壊するや,彼らはシャルル10世の孫のシャンボール伯Henri V,comte de Chambord(1820‐83)をフランス王位につけようとした。73年正統王党派はオルレアン王党派との合体に成功し,シャンボール伯を国王とする王政復古の企図が成るかにみえたが,シャンボール伯が三色旗にかえて正統王朝の白旗を国旗にすることに固執したため,結局オルレアン王党派は反対にまわりこの企ては挫折した。…
※「シャンボール伯」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」