世界大百科事典(旧版)内のシャーウル宮殿の言及
【スーサ】より
… 遺跡の主要な部分は南北に長い菱形で,南北1400m,東西800m,北に〈アパダーナapadāna〉,西に〈アクロポリス〉,東に〈王の都市〉,南に〈天主閣〉と便宜的に名付けられた4地区からなり,最高のアクロポリスで周囲からの高さが35mある。東側には〈技術者の町〉とよばれる広くて低いテル,西側には〈ダニエルの墓〉,シャーウル川を隔ててさらに西側にシャーウル宮殿がある。J.deモルガンが組織的な発掘調査を1897年に始めて以来フランス隊が継続して,この都市とイランの歴史に関する史料はもちろんのこと,バビロニアの歴史にとっても基本史料であるハンムラピ法典碑,アッカド王朝のマニシュトゥシュ王のオベリスク,ナラムシン王の戦勝碑などを発掘し,考古学的にはスーサ第I・第II様式の彩文土器が1930年ころまで西アジア先史時代編年の基準であった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」