世界大百科事典(旧版)内のスコラ・カントルムの言及
【イタリア音楽】より
…しかし,アンブロシウスの弟子でもあったアウグスティヌスによる,〈歌の内容にではなくて,歌そのものに感動したときには,罪を犯したような気持になる〉という反省は,キリスト教会の長い歴史の中で,教会における音楽のあり方をめぐっての論議に際し,折にふれて思い出されることになる。
[中世]
西方のキリスト教会がローマを中心にして中央集権的な体制を固めつつあったころ,グレゴリウス1世は,典礼聖歌の集大成とその普及に力を入れ,スコラ・カントルム(歌手の学校の意)の整備拡充を図った。グレゴリオ聖歌(グレゴリウス聖歌)として知られているローマ・カトリック教会の単旋典礼聖歌の体系が,7世紀のローマを中心にでき上がって連綿と伝えられてきたものとは考えがたいし,もしかしたら今日の体系(実質的には16世紀に整えられた)の中軸をなす歌の多くは,アルプス以北の諸地方で何世紀にもわたって作られてきたものかもしれないのだが,グレゴリウス1世の名は,中世以来,西方のキリスト教会の単旋典礼聖歌と結びつけられてきた。…
【音楽学校】より
…音楽の演奏,理論,作曲,教育,音楽学などを教育,研究するための社会的機関をいう。その源流は,4世紀に教皇シルウェステル1世によりローマ教会用の聖歌要員養成機関として設立されたスコラ・カントルム(聖歌学校)にまでさかのぼることができるが,近代的な意味での音楽学校の元祖は,ベネチアの〈オスペダーレospedale(病院)〉であるとされている。すなわち,病院の付属機関として,ピエタ慈善院Ospedale della Pietà(1346)などが設立され,音楽の才能のある女子に対して教育が行われたのである。…
【聖歌隊】より
…キリスト教会における歌い手の共同体。カトリック教会の公用語ではスコラ・カントルムschola cantorumで,ローマに最初につくられて以来,合唱団であると同時に音楽教育機関であった。教会と聖歌の発展にともなって,専門的な歌手の団体が必要となり生まれたものであるが,過度の芸術化はしばしば会衆からの遊離をもたらした。…
【ダンディ】より
…パリ音楽院でC.フランクに作曲とオルガンを学ぶ。国民音楽協会(1871設立)の主軸として,またスコラ・カントルム(1894宗教音楽団体として発足,96年音楽学校開設)の創設者として,第1次大戦前のフランス音楽界の中心的存在であった。ワーグナーに傾倒し,フランクの交響曲理念の信奉者であり,反ドビュッシー派の首領とも目された。…
【フランス音楽】より
…フランクはJ.S.バッハと晩年のベートーベンから教訓を引き出した。その教育を受け継ぐべく1896年に音楽学校〈スコラ・カントルム〉をC.ボルドやF.A.ギルマンと設立したダンディは,ワーグナーの影響をも進んで強く受けていた。いきおいフランク一派はフランス音楽をドイツ化しようとした,と批判されもしたが,その罪は〈まじめな音楽〉(ミュジック・セリューズmusique sérieuse)をフランスに取り戻した功と背中合せであろう。…
※「スコラ・カントルム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」