世界大百科事典(旧版)内のストゥデニツァの言及
【ユーゴスラビア】より
…これらセルピア南部ラシュカRaška地方の修道院・教会堂建築は,アドリア海沿岸経由のイタリア・ロマネスク様式を典礼上の要請に合わせて修正したものであり(〈ラシュカ派〉と呼ばれる),西正面の彫刻もイタリアに由来する。他方,内部のフレスコは,ストゥデニツァStudenicaの聖母教会(1196献堂)のコムネノス朝様式からミレシェボMileševoのなまなましいまでの個性表現を経て,ソポチャニSopoćaniにおける堂々たる人体表現に至るパレオロゴス朝ルネサンスの生成のプロセスを,ラテン帝国下のコンスタンティノープルに代わって示すもので,ビザンティン絵画の基準作品と考えられている。 この様式はさらに,1295年ビザンティン帝国の高官の寄進になるオフリドの聖クリメント教会において図式化をみせ,14世紀初頭のミルティンMilutin王が建てた一連の教会堂のフレスコにおいて洗練さが加えられる。…
※「ストゥデニツァ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」