世界大百科事典(旧版)内のスパルタクス派の言及
【ドイツ革命】より
…社会民主党内に開戦当初から存在した〈帝国主義戦争〉反対派もしだいに勢力を強め,戦争支持派による抑圧と排除に抗して,17年4月,ついにドイツ独立社会民主党を結成した。同党は,ハーゼ,カウツキーら平和主義的な党指導部から,ローザ・ルクセンブルク,カール・リープクネヒトを中心とする反戦革命派のスパルタクス派まで,さまざまな流れから構成されていた。 ロシアに革命が勃発したこの1917年は,ドイツでも大衆行動が大戦下最初の高揚を見せた年となった。…
【ドイツ共産党】より
…略称KPD(カーペーデー)。第1次大戦前のドイツ社会民主党左派から発展して大戦中に独自の組織を形成したスパルタクス派Spartakus Gruppe(インテルナツィオナーレ派Gruppe Internationale)と,ブレーメン左翼急進派Bremer Linkeなどから1918年に結成された。 スパルタクス派は,ローザ・ルクセンブルク,K.リープクネヒトらを指導者として組織され,政府の戦争政策を支持する党主流派に反対し,反戦と革命行動を唱えて非合法誌を発行し,この誌名がグループの呼称となった。…
【ドイツ社会民主党】より
…ドイツの有力な政党。略称SPD。この党名は1890年以来のものだが,党としてのその歴史はもっと古い。
[1875年まで]
1830年代に始まったドイツの社会主義的ないし共産主義的運動と労働運動は,48年革命期に高揚したが,革命の挫折とともに抑圧され,マルクス,エンゲルス,ボルンStephan Bornなどの指導者は亡命を余儀なくされた。50年代末,政治活動が息を吹き返すと,再び各地に労働者教育協会が設立され始めた。…
【リープクネヒト】より
…ドイツの革命家。W.リープクネヒトの次男。ライプチヒおよびベルリン大学で法学を修め,1899年ベルリンで弁護士事務所を開く。1900年父の死の直後その志を継ぎドイツ社会民主党に入党,02‐13年ベルリン市会議員,08‐16年プロイセン邦議会議員,1912‐16年帝国議会議員を務めた。とりわけ反戦活動と青年運動に情熱を傾け,1907年《軍国主義と反軍国主義》を公刊し,そのため1年半投獄される一方で,同年,社会主義青年インターナショナルが結成されるとその会長に推された(1910まで在任)。…
【ルクセンブルク】より
…ドイツおよびポーランドの革命家,マルクス主義理論家。木材業者の娘としてロシア領ポーランドのザモシチに生まれる。ワルシャワの高校生時代に社会主義運動に参加,1889年,チューリヒに逃れ,大学で自然科学,哲学,社会科学を学び,博士論文に取り組む(1898年《ポーランドの産業発展》として公刊)とともに,多くの亡命革命家と知り合い,94年,仲間とポーランド王国社会民主党を結成。98年,市民権を得てベルリンに移り,ドイツ社会民主党に入党。…
※「スパルタクス派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」