世界大百科事典(旧版)内のスリースウィー戦争の言及
【スリースウィー問題】より
…一方で住民の4分の3がドイツ人となる〈シュレスウィヒ・ホルシュタイン両公国〉の一体視の思想は,ドイツ統一運動の一環に組み込まれていたため,国家再編成をめざす両民族の衝突は避けられなかった。1848年3月,デンマークでは自由主義者の政権が誕生し,それに抗してシュレスウィヒ・ホルシュタイン主義者がキール臨時政府を樹立しドイツ連邦の援助をあおいだため,デンマーク,プロイセン軍が出兵し,第1次スリースウィー戦争(1848‐50)に突入した。戦前の状態の維持がデンマークの勝利の代償であり,結果的に第2次スリースウィー戦争(1863‐64)を招来し,デュベルDybbølの戦で決定的敗北を喫したデンマークは,スリースウィー,ホルシュタイン,ラウエンブルクの3公爵領を失った。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」