世界大百科事典(旧版)内のソーナム・ギャツォの言及
【アルタン・ハーン】より
…その後約20年間にわたって明へ侵入し,大きな被害を与えたが,70年(隆慶4),その孫の把漢那吉が明に下ると,明と和約を結び,順義王の称号を得た。78年(万暦6),アルタンは青海地方で,チベット黄帽派(ゲルー派)ラマ教の管主ソーナム・ギャツォ(1543‐88)と会見し,これにダライ・ラマの称号を贈るとともに,黄帽派の保護を約束した。晩年はラマ教に深く帰依し,その根拠地フフホト(現在,内モンゴル自治区の省都)をはじめ,多くのラマ教寺院を建てた。…
【ダライ・ラマ】より
…ゲルー派の抵抗運動を組織したゲンドゥン・ギャツォの没後,勢力結束の象徴として,反対派の習慣にならってその転生者が選ばれた。この転生活仏ソーナム・ギャツォは1578年青海に赴いてモンゴルのアルタン・ハーンと会い,ダライ・ラマの称号を受けた。ダライはその名の一部ギャツォ(大海)に対するモンゴル語である。…
【チベット】より
…このようにしてカルマ派の拠点に近い有力氏族の子供にそれを指定した。ゲルー派の新しい転生活仏ソーナム・ギャツォは,優れた僧として成長したが,周囲の期待に反して,対立する2派の勢力を融和させる努力を続けた。1578年,彼は青海の南岸に赴いて,彼を招いたアルタン(俺答)・ハーンと会い,ハーンを教化してダライ・ラマの称号を受けた。…
※「ソーナム・ギャツォ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」