世界大百科事典(旧版)内のティトゥスの凱旋門の言及
【凱旋門】より
…それらの大部分は,凱旋に関するものではないため記念門と称すべきであるが,通常,広義の凱旋門に加えられている。紀元81年ころ建立の《ティトゥスの凱旋門》(ローマ)は保存状態がよく,当時を代表する建築作品の一つである。また《トラヤヌスの凱旋門》(ベネベント)は,浮彫装飾が完全にのこっている。…
【ティトゥス】より
…ローマ皇帝。在位79‐81年。ウェスパシアヌス帝の長子,次帝ドミティアヌスの兄にあたる。父のユダヤ遠征に同行中,ネロ死後の後継者争いが起こり,父からユダヤ戦争の全権を託され,70年エルサレムを陥落させた。その戦功はティトゥス凱旋門に記念されている。父帝在位中からその統治を助け,父の死後即位。在位中起きたウェスウィウス(ベスビオ)火山の噴火,ローマの大火,疫病流行に際しては積極的に罹災者の救護,施設の復旧に当たるなど,その寛大で人道的な政策により民衆の人気が高かった。…
【ローマ美術】より
…現実の情景を表す〈歴史的浮彫〉が出現するのもこの時代からであり,《カンチェレリア宮殿の浮彫》やトラヤヌスの記念柱(ローマ)において頂点に達する。一方,イリュージョニズムも現れ,ティトゥスの凱旋門(ローマ)の浮彫は,その表現法が共和政期の美術の伝統に基づくことを示している。ハドリアヌス時代の彫刻はティボリにある同帝のウィラから多数出土し,そこには皇帝の古典主義に対する好み,それに小アジア出身のアフロディシアスAphrodisias派彫刻家の活躍がうかがえる。…
※「ティトゥスの凱旋門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」