世界大百科事典(旧版)内のテオドゥルフの言及
【オルレアン】より
…498年にはクロビスがオルレアンを奪取し,511年には,ここでフランス最初の宗教会議を開催。シャルルマーニュの時代には,司教テオドゥルフThéodulfの指導で学院が設立され,これに発する知的中心としての伝統は,1306年の大学の設立で頂点に達する。宗教改革の指導者カルバンも,ここで法学を学んだ。…
【カロリング朝美術】より
…こうして,カロリング朝の芸術は大帝やその側近,貴族たちの宮廷や大修道院を中心に栄えた。大帝は学問の振興のためにアルクイン,テオドゥルフThéodulf(750ころ‐821)ら多くの学識者をヨーロッパ各地からアーヘンに招いた。彼らの中にはビザンティン帝国で起こったイコノクラスム(聖像破壊運動)に反対の論陣を張る者があり,大帝は有名な〈カールの書〉を発して聖像表現を認めた。…
【カロリング・ルネサンス】より
… カールの治世当初の荒廃した知的環境のもとでは,ラテン的・キリスト教的な古典復興の仕事は,かろうじて古典を保存できた修道院出身の学識ある聖職者の手にゆだねられた。宮廷の周辺には,アインハルトのようなフランク人もいたが,イングランドのアルクイン,イタリアのペトルスPetrus,スペインのテオドゥルフThéodulf(750ころ‐821)のように,外国から招かれた学者が多く,この運動の全西欧的な性格を示している。アイルランドの修道院が正しいラテン語の教育に貢献したこと,〈カロリング朝の小字体〉が16世紀以来活字体ローマ字にモデルをあたえたことも特筆されよう。…
【キリスト教文学】より
…この時代にイギリスは,古代英語で宗教詩を制作した2人の詩人,キャドモンCaedmon(7世紀末)とキネウルフ(8世紀末)をもったことも注目に値する。 カールの朝廷に集まった多くの文人中,詩人として名高いのは復活祭前主日の賛歌《栄えと称賛,誉れとを享(う)けたまえ,あがない主キリストよ》などの作者オルレアンのテオドゥルフTheodulf(750ころ‐821ころ)やアンギルベルトAngilbert(745ころ‐814)らであるが,《ランゴバルド史》の作者パウルス・ディアコヌスPaulus Diaconus(720ころ‐797ころ)にも《大教皇グレゴリウス伝》や,8音階の源となった《バプテスマのヨハネへの賛歌》などの詩がある。アルクインの流れは多くのすぐれた宗教詩人を生み,中でもフルダ修道院によったラバヌス・マウルスやゴットシャルク,ワラフリド・ストラボWalahfrid Strabo(808か809‐849)は,それぞれ敬虔な,あるいは哀切な,また優雅な賛歌の作者として知られる。…
【ジェルミニー・デ・プレ】より
…人口約400人。オルレアン司教であり,サン・ブノア・シュル・ロアール修道院長であった,カール大帝の宮廷顧問テオドゥルフThéodulfの別荘に付属した私設礼拝堂(800ころ)が残る。集中式プランで,モザイクによる装飾を施すなど,ビザンティン美術の影響が濃い。…
【ラテン文学】より
…聖堂と修道院に学校が創設され,古典の教養の深い聖職者が各地から集められて,古典文化復興の気運が高まった。アルクイン,テオドゥルフTheodulf,ラバヌス・マウルスなどがこの時期に活躍している。10世紀のオットー帝国もイタリア文化を尊重してラテン語を公用語にしたが,12世紀から13世紀にかけて再びルネサンス運動が起こって,ボローニャ,パリ,オックスフォードなど各地に相ついで大学が創設され,アベラール,トマス・アクイナス,R.ベーコンなどの大学者が登場した。…
※「テオドゥルフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」