世界大百科事典(旧版)内のドゥストゥール党の言及
【チュニジア】より
…民族運動の高揚期は三つの波に分かれる。すなわち第1の波は第1次大戦後のチュニジア立憲自由党(ドゥストゥールDustūr党)が指導した立憲君主制の憲法を要求する運動,第2の波は,1930年代半ばに,同党を除名され,同名のドゥストゥール党(ブルギーバ派,新ドゥストゥール党ともよばれる)を結成しその指導者として台頭したブルギーバが率いた大衆的な反植民地支配運動,第3の波は第2次大戦後の独立運動である。フランス政府はいずれも弾圧をもって臨んだが,50年代に入ってドゥストゥール党は労働組合ほかの大衆運動,都市テロ,農村ゲリラ戦術によって圧力をかけ,55年6月に内政上の自治,翌56年3月に完全独立を達成した。…
【ブルギーバ】より
…モナスティールに生まれ,ソルボンヌで法律を学んだ。チュニスで弁護士を開業するとともに政治活動に入り,1934年に立憲自由党(ドゥストゥール党)を結成して以来,弾圧を受けながら民族運動を指導し,56年にチュニジアの独立を達成した。同年首相に就任したが,翌57年の共和制移行とともに大統領になり現在にいたっている。…
※「ドゥストゥール党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」