世界大百科事典(旧版)内のハトミーヤの言及
【スーダン】より
…しかし,南部問題に典型的にみられるように,植民地支配のつくりだした分断の跡は大きく,独立後,こうした問題が国内統一の障壁として残されることとなった。独立後政権を握ったハトミーヤKhatmīya(親エジプト的有力スーフィー教団。ミールガニーMīrghanī派ともよばれる)およびマフディー派の流れをくむアンサールの二大土着勢力による政府は,こうした問題に取り組む能力を欠いていた。…
【マフディー派】より
… 85年にマフディーが死ぬと,カリフ,アブド・アッラーフ・ブン・ムハンマド‘Abd Allāh b.Muḥammad(1846ころ‐99)がこれを率いたが,98年同国家はイギリス軍に滅ぼされた。以後,教団は革命的性格を失い,しだいに親英的立場に移行したが,エジプトとの統合に反対してスーダンの独立を求めるウンマ党の基盤となり,ミールガニー派(ハトミーヤ)と対立しつつ政治的影響を保持した。マフディーの子孫が教団のイマーム,ウンマ党党首となったが,1970年軍事政権下で弾圧され,同年イマームの暗殺後はイマームを置いていない。…
※「ハトミーヤ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」