世界大百科事典(旧版)内のバザン,A.の言及
【アバンギャルド】より
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[アバンギャルドと商業映画]
1949年,フランスのビアリッツで商業主義から見離された映画を集めた〈呪われた映画祭〉が開催された。これに際して,映画批評家アンドレ・バザン(1918‐58)は映画の大衆性と芸術性が離反するという考えは間違いであることを強調し,映画の美学の前衛に立ち,真に映画を前進させるものはすべて〈アバンギャルド〉であるという新しい定義とマニフェストを発表した。その意味で最初の真のアバンギャルド映画作家はメリエスであり,次いでグリフィス,そしてフィヤード,ガンス,シュトロハイムであるとし,これら商業映画を作る以外の何ものもめざさなかった監督たちが今日の映画にもたらしたものはブニュエルやリヒターよりも少ないだろうかと喝破した。…
【映画】より
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[映画そのものの探究へ]
こうして,映画の芸術性についての論議は結着をみないまま時代を経て続けられた。一方,このそもそもの〈芸術的差別〉を,おそらく真に自覚したのは,ヌーベル・バーグに決定的な影響を与えたフランスの批評家A.バザンであろう。バザンは〈すべての映画は生まれながらにして自由で平等である〉と宣言したのである。…
【大人は判ってくれない】より
…1959年のカンヌ映画祭に,当時の文化相アンドレ・マルローの推薦で出品されて,監督賞を受賞。〈ヌーベル・バーグの父〉ともいわれる映画批評家であり,トリュフォーの親代りだったアンドレ・バザンにささげられている。【広岡 勉】。…
【トリュフォー】より
… パリ生れ。15歳のときにシネクラブ〈ル・セルクル・シネマヌ〉を主宰し,トリュフォー自身が〈精神的な父親〉と呼ぶ映画批評家アンドレ・バザンAndré Bazin(1918‐58)と知り合う。バザンのすすめで1951年に創刊された映画批評誌《カイエ・デュ・シネマ》に筆をとり,また週刊誌《アール》の映画批評欄でも,当時のフランス映画の〈名匠〉たちを否定するしんらつな筆をふるって〈フランス映画の墓掘り人〉とあだ名された。…
【ヌーベル・バーグ】より
…これが〈ヌーベル・バーグ〉の理論的支柱となった〈作家主義〉(あるいは〈“オートゥール”理論〉)の母胎となる。もちろん,それ以前に《カイエ・デュ・シネマ》の主導者であったアンドレ・バザンAndré Bazin(1918‐58)の〈映像本体論〉(1945)やアレクサンドル・アストリュックの有名な〈カメラ万年筆〉論(1948。《レクラン・フランセ》第144号)といった先駆的なマニフェストがあったことも忘れてはならない。…
【モンタージュ】より
…そしてプドフキンとエイゼンシテインのモンタージュ論は,それぞれの監督作品《母》(1926)と《戦艦ポチョムキン》(1925)で実践されている。 ソビエトのモンタージュ論は,のち30年代の〈社会主義リアリズム〉をへて政治的に批判され,また,第2次世界大戦直後のイタリア〈ネオレアリズモ〉のドキュメンタリー・タッチが世界の映画を変革しはじめたころには,映画の〈演出(ミザンセーヌmise‐en‐scène)〉の基本は〈カット割り(デクパージュdécoupage)〉ではなく,〈劇的空間の持続性の尊重〉を旨とする〈ワンシーン・ワンカット(プランセカンスplan‐séquence)〉にあるとするフランスの映画理論家アンドレ・バザンAndré Bazin(1918‐58)の〈ワンシーン・ワンカット〉説によって否定される形となった。しかし,それが映画の芸術的表現に寄与したところは大きく,映画理論の〈歴史〉においては重要な地位を占めている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」