《ビヨンの形見》(読み)びよんのかたみ

世界大百科事典(旧版)内の《ビヨンの形見》の言及

【ビヨン】より

…幼くして父を失い,暮しに困って預けられた養父にその名をもらって,フランソア・ド・ビヨンと名のり,悪友からはあだ名をもらって,フランソア・デ・ロージュ(ずらかり屋のフランソア)と呼ばれた。彼は,パリ大学の暴れる学生の一人で,学士となったが,55年にけんかがもとで司祭を殺傷し,《ビヨンの形見》を書いたうえ,パリを逃げ出す。いったんは赦免にあずかり,パリに戻ったのもつかのま,翌年のクリスマス・イブにはナバール学寮に押し入って金貨500枚を盗む,という事件に連座して,また逐電,放浪の旅に出る。…

※「《ビヨンの形見》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む