フェラーラ・フィレンツェ公会議(読み)ふぇらーらふぃれんつぇこうかいぎ

世界大百科事典(旧版)内のフェラーラ・フィレンツェ公会議の言及

【教会合同】より

…この両教会は1054年に決定的に分離した。 ローマ教会はビザンティン帝国がオスマン・トルコの攻撃にさらされ弱体化したのに乗じて教会合同を呼びかけ,第2リヨン公会議(1274)とフェラーラ・フィレンツェ公会議(1438‐39)が開かれた。後者においてはコンスタンティノープル総主教を首長とするビザンティン教会ならびにその管轄下の教会,さらに若干の非カルケドン派教会との合同が成立した。…

【教皇権】より

…外部干渉からの教皇権独立の動きは,レオ9世(在位1049‐54)に始まり,グレゴリウス7世(在位1073‐85)の宣言《ディクタトゥス・パパエ》(1075)を経て,第3ラテラノ公会議(1179)の教皇選挙新令により制度的に確立された。14世紀のアビニョン捕囚と対立教皇間の大分裂(1378‐1417)は,教皇権への信用を失墜させたが,その解消に一役を買った公会議至上主義は,フェラーラ・フィレンツェ公会議(1438‐45)により破棄された。教皇権はその後,宗教改革者や啓蒙主義者からの攻撃もあって,トリエント公会議(1545‐63)と第1バチカン公会議(1869‐70)により組織的に明確にされ,その司教団との関係も,第2バチカン公会議(1962‐65)により,教皇はキリストの代理者として全教会の上に最高完全の権能を有し,それを単独で自由に行使することも,司教団の頭として司教団とともに行使することもできる(教会憲章22)という形で,補足説明された。…

【フィレンツェ公会議】より

…17年,同会議で教皇に選ばれたマルティヌス5世のもとで,両教会の接触が本格化し,統一のための新たな公会議について折衝が続いた。その間マヌエル2世の長男ヨハネスが,再度軍事援助を求めてベネチア,ミラノを訪れ(このときもローマ入りせず),ハンガリーにジギスムントを訪ねたが不成功に終わった後,父の後を継いでヨハネス8世となったその治下で,ついにフェラーラ・フィレンツェ公会議が実現をみた。会議全体を通じてラテン側,ビザンティン側の参加者は,それぞれ360人,200人に上った。…

※「フェラーラ・フィレンツェ公会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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