ブラゼッティ,A.(読み)ぶらぜってぃ

世界大百科事典(旧版)内のブラゼッティ,A.の言及

【イタリア映画】より

…1925年,〈映画による教育宣伝を目的〉とした映画公社〈ルーチェLUCE〉の設立,32年ベネチアの〈ビエンナーレ展〉に映画部門開設(1934年からベネチア国際映画祭としてスタート),34年民衆文化省映画局の設立,35年映画学校〈チェントロ・スペリメンターレ・ディ・チネマトグラフィア(映画実験センター)〉開校,37年映画都市と呼ばれたチネチッタ撮影所の建設,さらに同映画理論誌《ビアンコ・エ・ネーロ》および《チネマ》の創刊等々。〈ネオレアリズモ〉の先駆となった《太陽》(1929),《1860年》(1933)の監督アレッサンドロ・ブラゼッティ,《レール》(1929),《人間,なんたる悪党》(1932)の監督マリオ・カメリーニがデビューしたのもこのファシズム時代においてであり,ファシズムの映画体制を促進する目的で作られた映画実験センターからは,ロベルト・ロッセリーニ,ルチアーノ・エンメル,ミケランジェロ・アントニオーニ,ルイジ・ザンパ,ピエトロ・ジェルミ,ジュゼッペ・デ・サンティス,フランチェスコ・マゼッリらが,またムッソリーニの息子ビットリオ・ムッソリーニを編集長にいただいた《チネマ》誌の同人からは,ルキノ・ビスコンティ,チェーザレ・ザバッティーニ,カルロ・リッツァーニら,のちに世界の映画界に衝撃を与える〈ネオレアリズモ〉を担う映画作家たちが輩出したのである。
[戦後のイタリア映画]
 第2次大戦後のイタリア映画は,1960年代半ばから70年代にかけて旋風を巻き起こす〈マカロニ・ウェスタン〉を除けば,ビットリオ・デ・シーカ監督《昨日・今日・明日》(1964)のアメリカ・アカデミー外国語映画賞受賞をきっかけとして,国際的に注目されることになる戦後の〈イタリア喜劇〉の系譜(マルチェロ・マストロヤンニ,ソフィア・ローレンのコンビやリオ・ガスマンが主演する一連の艶笑喜劇等々)も,アレッサンドロ・ブラゼッティの《ヨーロッパの夜》(1960)に始まる〈夜もの〉から,グアルティエロ・ヤコペッティの《世界残酷物語》(1961)をはじめとする一連の〈残酷ドキュメンタリー〉に至るブームも含めて,広い意味で〈ネオレアリズモ〉とその変貌の軌跡とみなすことができる。…

【ネオレアリズモ】より

…この2作品はイタリアの国立映画学校である〈映画実験センターCentro Sperimentare di Cinematografia〉(通称〈チェントロCentro〉)のすぐれた教材となり,ここに〈ネオレアリズモ〉の根があるということもできる。ファシスト政権下でイタリア映画そのものが衰退した時代にも,この流れはアレッサンドロ・ブラゼッティ監督《1860年》(1933)やマリオ・カメリーニ監督《殿方は噓つき》(1932)に引き継がれていく。 チェントロは1935年に〈映画の芸術的・科学的発展に貢献する若き学徒の育成のために〉創立されたが,本来はファシズム映画製作の学習場であったのを,ルイジ・キアリーニとウンベルト・バルバロという2人の映画理論家の積極的な指導によって,戦時下を通じて,のちに〈知的青年の自由港〉といわれたほど自由な映画教育の場としたのであった。…

※「ブラゼッティ,A.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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