ブラティアヌ,I.(読み)ぶらてぃあぬ

世界大百科事典(旧版)内のブラティアヌ,I.の言及

【ブラティアヌ】より

…ルーマニアの政治家。ルーマニア有数の政治家の家系に生まれ,彼と同名の父Ion Brǎtianu(1821‐91)は1848年ワラキア革命の参加者で,66年には代表的なブルジョア政党である民族自由党の創立者の一人だった。彼も1909‐27年に同党の党首となり,大臣を歴任,第1次大戦時と1922‐26年には首相を務めた。彼の反民衆的な民族主義的政策は,1907年の農民反乱の鎮圧,第2次バルカン戦争への参戦の主張,革命直後のロシアとハンガリーへの干渉政策によく反映されている。…

【ルーマニア】より

…1866年憲法には〈外国人のうちキリスト教の儀礼に従う者のみがルーマニア人たる要件を得ることができる〉(第7条)という規定が設けられ,その後ユダヤ人に対しさまざまな経済的・社会的規制が行われるようになった。1848年の革命の指導者だったブラティアヌやコガルニチャーヌが当時相次いで内相となり,反ユダヤ政策を推進している。諸宗教の平等規定(第44条)を含む78年のベルリン条約を受け入れるに当たり,憲法第7条の部分的修正が行われたが(1879年10月),ユダヤ人の実質的な平等は得られなかった。…

※「ブラティアヌ,I.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

敵を欺くために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。また、苦しまぎれに考え出した手立て。苦肉の謀はかりごと。「苦肉の策を講じる」...

苦肉の策の用語解説を読む