世界大百科事典(旧版)内のヘントの和平の言及
【オランダ共和国】より
…オラニエ公は両州の総督(スタットハウデル)に任じられて反乱の指導者に推され,スペイン軍に包囲されたアルクマールやライデンを次々に解放した。76年,オラニエ公は反乱軍の占拠した2州とスペイン軍支配下にある諸州との間に〈ヘントの和平Pacificatie van Gent〉を成立させ,全ネーデルラントの統一と平和を実現することに成功した。
[共和国の成立と発展]
1579年,北部7州とフランドル,ブラバント両州の諸都市はユトレヒト同盟を締結してスペイン軍と戦うことを誓った。…
【八十年戦争】より
…73年アルバ公に代わった執政レケセンスL.de Zúñiga y Requesénsの急死(1576)とそれに続くスペイン兵の反乱が事態を急転させた。76年11月ホラント,ゼーラント両州と他のスペイン軍支配下にある諸州との間に〈ヘントの和平Pacificatie van Gent〉が結ばれ,ここに対スペイン全国同盟が成ったかに見えた。しかし77年〈永久令〉を承認して全国議会により迎え入れられた新執政ドン・フアンDon Juan de Austriaが結局は議会と決裂した後,威信の高まったオラニエ公に対する南部カトリック貴族の反感,とりわけ78年1月ジャンブルーでの議会軍の惨敗後激化した新旧両教徒間の確執は〈ヘントの和平〉を掘り崩し,79年1月南北にアラス同盟,ユトレヒト同盟が分立した。…
【ヘント】より
…10~12世紀にフランドル伯居城が築かれ,ここでカール5世(スペイン国王カルロス1世)が生まれた。オランダ独立戦争中の1576年,スペインとの一時的休戦条約〈ヘントの和平〉が結ばれた地としても知られる。【石坂 昭雄】。…
※「ヘントの和平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」