世界大百科事典(旧版)内のヘンリク条項の言及
【ザモイスキ】より
…ザモイスキは即位要請の使節としてパリに出向いていった。のちに〈ヘンリク条項〉と呼ばれることになる諸項目(国王選挙はすべてのシュラフタによること,宣戦,騎士動員,課税は議会の同意を得ること,セイムを2年ごとに召集すること,この諸項目が守られない場合はシュラフタに〈反乱〉権があること)をヘンリクが承認し,ヘンリクの王位就任が決定した。ところが同年フランス国王シャルル9世が死去し,ヘンリクはフランス王位を継ぐために帰国してしまった。…
【セイム】より
… 当初セイムは開催地も特定化せず開催時期も定まっていなかったが,1569年のリトアニアとの合同(ルブリン合同)以後はワルシャワで開催されることになり,さらに1673年以後は3回に1回はリトアニアのグロドノで開催されることになった。また1573年の〈ヘンリク条項〉によって2年に1回の召集が国王に義務づけられた(期間は6週間。臨時セイムの場合は2週間)。…
【ポーランド】より
…しかしヘンリクは翌年フランス王位に即くために帰国してしまい,75年にあらためて国王選挙が実施され,トランシルバニア公バートリが選ばれ,ステファン・バトーリStefan Batoryとして即位した。ジグムント・アウグストの妹アンナAnnaとの結婚と,ヘンリクが即位に際して認めた〈ヘンリク条項〉の再確認が即位の条件であった。財政改革と軍制改革(とくに有名なのがフサリアHusariaと呼ばれる重装騎兵軍の創設。…
※「ヘンリク条項」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」