出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…〈イタリア映画最後の日〉と評されることになる史劇映画最後の超大作《ポンペイ最後の日》の4度目の映画化作品(1926)をアムレート・パレルミと共同で撮ったカルミネ・ガローネも,その後1926年から36年にかけて,フランス,イギリス,ドイツ,ハンガリーを転々とし,ムッソリーニ政権下の母国では音楽映画《おもかげ》(1935),スペクタクル史劇《シピオネ》(1937)などの国策映画を撮ることになる。
[国策映画と白い電話機映画]
知謀の勇将シピオネの決断と国民の愛国心によるローマ帝国の北アフリカ侵略の勝利を謳歌した《シピオネ》は,ムッソリーニのエチオピア侵略戦争を正当化した作品として(ムッソリーニ自身がこの映画の脚本を書いたともいわれる),また実際にアフリカでロケされ,そして建設されたばかりの映画都市チネチッタで作られた最初の超大作として,ムッソリーニのもっとも気に入った映画であった(1937年のベネチア映画祭で,のちのグラン・プリに相当する〈ムッソリーニ杯〉を授与された)。実際,イタリア史劇映画の伝統を感じさせる大スペクタクル歴史絵巻と評されたが,映画史家アーサー・ナイトによれば,ローマ帝国の兵士が腕時計をつけていたり,ローマの丘の上に電柱が立っていたりするといったずさんなところもあったという。…
…65年のベルリン映画祭では,日本映画製作者連盟(映連)が推した大映の《兵隊やくざ》と東映の《にっぽん泥棒物語》が予選で落とされ,独立プロの《壁の中の秘事》(若松孝二監督)が映画祭事務当局の独自の見解で正式参加作品にされたため,映連は今後この映画祭に出品しないことを通告,その後ベルリン側からの謝罪があって出品を再開したというような実情である。 国際映画祭は開催国に,(1)自国および自国の映画の宣伝,(2)観光収入という二つの効果,利益をもたらすといわれるが,実際,世界でもっとも古い歴史をもつベネチア映画祭はムッソリーニ政権下の1932年に〈国威宣揚〉の目的で生み出され,また,どの国際映画祭も国際親善と映画芸術の発展のためにつくすことをうたいながら,実質は映画の商品見本市を主要な目的とし,同時にスターや映画人の集いの場であり文化交流の場であることを目ざしているということができる。その意味でもっとも重要なのがフランスのカンヌ映画祭(1946発足)である。…
※「ベネチア映画祭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新