世界大百科事典(旧版)内のペロン,I.の言及
【アルゼンチン】より
…この憲法は実際,国の政治的安定に寄与し,1862年から1930年までは議会制度が円滑に機能していたが,1930年の軍事クーデタ以来,政治は軍政と民政が交互に繰り返される不安定な状況が続いた。この間1949年にペロン大統領のもとで憲法改正が実施されたが,1955年の同政権の崩壊後,1853年憲法が復活した。1983年に民政移管が実現してから軍の政治介入は急速に減少し,政治的な民主主義が確立されつつある。…
【ペロニスモ】より
…アルゼンチンの政治運動で,創始者J.D.ペロンにちなみ,こう呼ばれている。1943年6月4日,軍事クーデタの有力指導者だったペロンの打ち出した親労働者政策が大衆の支持を受けたことから生まれた運動で,社会正義,経済的自立,自主外交を基本的な政策路線としている。…
【ペロン】より
…この支持をバックに軍事政府内随一の実力者にのし上がり,44‐45年には,福祉庁長官のほか,陸軍大臣,副大統領をも兼ねた。だが彼のあまりに労働者寄りの政策に対する批判がしだいに強まり,45年10月軍内部の反ペロン派の蜂起にあって失脚し,幽閉された。ここに彼の政治生命は断たれたかに見えたが,10月17日労働者は大規模な抗議デモを組織してペロンの釈放をかちとり,彼は一躍労働者大衆のアイドルとなった。…
※「ペロン,I.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」