世界大百科事典(旧版)内のミュンヘン新芸術家協会の言及
【カンディンスキー】より
…モスクワに生まれ,法学,経済学を修めたのち,30歳の時に画業を志してミュンヘンへ出る。1909年に〈ミュンヘン新芸術家協会〉の設立に加わってその代表者となり,前衛美術を推し進めた。また11年にはドイツ表現主義を代表するグループのひとつ〈ブラウエ・ライター(青騎士)〉を創設。…
【ブラウエ・ライター】より
…また多数収録された古今の図版,とくに民衆的,民俗的,原始的な図像や児童画は,抽象志向と芸術の根源的探求との強い結びつきを示している。彼らのグループとしての活動は,11年12月に〈ミュンヘン新芸術家協会〉第3回展で出品作を拒否されたカンディンスキーがマルク,クビーン,ミュンターGabriele Münter(1877‐1962)らとともに脱会し,同じ画廊で同時にブラウエ・ライター編集部主催展を開いたことに始まる。翌年の第2回展には,ピカソ,ブラック,ドラン,マレービチ,ラリオーノフらをも招待した。…
※「ミュンヘン新芸術家協会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」