世界大百科事典(旧版)内のムーアクロフト,W.の言及
【カラコルム[山脈]】より
…【酒井 敏明】
[探検史]
カラコルムの探検史の中で文献に現れる一番古いものは,1533年ミルザ・ハイダルがカラコルム峠,サセール峠を越えたものである。1819‐25年のW.ムーアクロフトらによるカラコルム探検に始まり,第2次世界大戦までに活動範囲の広い地理的探検のあらかたは完成したといえる。 そのおもなものとしては,1847‐48年H.ストレーチーによるシアチェン氷河の発見,61年H.H.ゴドウィン・オースティンのヒスパー,ビアフォ,バルトロ氷河の踏査,86‐87年F.ヤングハズバンドのサルポ・ラッゴ氷河からのムスターグ峠越え,92年W.M.コンウェーのバルトロ氷河踏査,1898‐1912年ワークマン夫妻の数回にわたる広範囲の活動,1902年O.エッケンシュタイン隊のK2試登,09年アブルッツィ公のK2,スキャン・カンリ,チョゴリザの試登,13‐14年F.デ・フィリッピ隊の東部カラコルム探検,22‐35年P.C.フィッサー夫妻による探検,28‐29年スポレート公によるバルトロ氷河,シャクスガム川の踏査,30年G.ダイネッリのシアチェン,テラム・シェール,リモ氷河の踏査などがある。…
【中央アジア探検】より
…とくに西トルキスタンでは,19世紀になるとロシアがブハラ,ヒバ,ホーカンドの3ハーン国への侵略を目ざしたので,インドを植民地とするイギリスはこれを最も恐れ,その情勢を探るため何人もの探検家をこの地方に送りこんだのである。ムーアクロフトWilliam Moorcroft(1765?‐1825),バーンズAlexander Burnes(1805‐41),ストッダートCharles Stoddart(1806‐42)らの探検はいずれもその好例であるが,この時代には現地人との紛争から非業の最期をとげた探検家が少なくない。第2は,この地方が考古学資料の宝庫だったことである。…
※「ムーアクロフト,W.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」