世界大百科事典(旧版)内のラフィアの戦の言及
【アンティオコス[3世]】より
…セレウコス2世の次子。衰退した王国の再建に乗りだし,第4次シリア戦争(前219‐前217)では,前217年ラフィアの戦でプトレマイオス4世に敗れ,意を果たさなかったが,東方に大遠征を行い(前212‐前205),アルメニア,パルティア,バクトリア,インドで宗主権を認めさせ,アラビアをへて帰還,〈大王〉と称された。さらにマケドニアのフィリッポス5世とプトレマイオス朝領分割の密約を結び,第5次シリア戦争(前202‐前200)でシリア南部(コイレ・シリア)とフェニキアを奪回したが,小アジアの南・西岸を制圧しトラキアに歩を進めたところでローマと衝突,前190年のマグネシアの戦で決定的敗北を喫し,前188年アパメイア条約でトロス山脈以西の小アジアを放棄した。…
【エジプト】より
…2世はまた実姉アルシノエ2世を王妃とし,エジプト王家に伝統的な姉弟(兄妹)婚を導入した。 しかしシリアのセレウコス朝にアンティオコス3世が即位すると,東西交易の拠点フェニキア沿岸の占拠を狙って進軍,プトレマイオス4世はエジプト人を初めて徴兵してこれを撃退する(前217,ラフィアの戦)が,5世の在位中(前204‐前180)にキプロス以外の全海外領土を喪失,ローマに援助を求めたため以後ローマの東方干渉が始まる。ラフィアの戦の勝利によるエジプト人の民族的自覚と海外領土喪失による農民への重税は,農地放棄や農民一揆を頻発させ,神官階級の特権を増大させ,国家財政はいっそう窮迫した。…
※「ラフィアの戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」