世界大百科事典(旧版)内のロマノフ・ホルシュタイン・ゴットルプ朝の言及
【ピョートル[3世]】より
…内政には無関心で,重臣たちによる貴族の勤務の自由や修道院領国有化政策を認め,これが民衆の間に,皇帝は農奴の解放も企てたが果たせなかったとのうわさを生み,プガチョフの乱で彼が僭称される背景になった。ロマノフ朝は彼以後,ロマノフ・ホルシュタイン・ゴットルプ朝とよばれる。【鳥山 成人】。…
【ロマノフ朝】より
…エカチェリナ2世の死後の96年に即位したパーベル1世はただちにこの継承法を廃し,父から順次年長の男児に,男児のない場合は年長の弟にという継承順位の原則を定めたので,これ以後,混乱はおこらなかった。またピョートル3世は,女帝エリザベータの姉で神聖ローマ帝国のホルシュタイン公に嫁したアンナの子であるため,厳密にはピョートル3世以後をロマノフ・ホルシュタイン・ゴットルプ朝という。パーベル1世の短い治世からロシア革命までの百数十年間,ロマノフ家は多くの土地,工場,鉱山,宮殿,美術品などを所有する世界屈指の大富豪であり,アレクサンドル2世時代のように改革運動の先頭に立つこともあったが,国内の改革や革命の動きに対しては弾圧をもってのぞみ,国際的にはロシアはヨーロッパ反動の牙城と考えられていた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」