世界大百科事典(旧版)内のローレ,P.の言及
【ワイルダー】より
…その後,《少年探偵団》(1931),《ブロンドの夢》(1932)など10本余りの脚本を書くが,ヒトラーが政権を握った1933年,ユダヤ人であるためパリにのがれ,そこでダニエル・ダリュー主演の《悪い種子Mauvaise Graine》(1933)をアル・エスウェーと共同監督し,34年に,メキシコをへてアメリカに渡った(あとに残された母や家族は強制収容所で死亡したという)。 ハリウッドではフリッツ・ラング監督の《M》で知られた俳優ピーター・ローレPeter Lorre(1904‐64)のところに転がり込んで貧窮の生活を送るが,38年からチャールズ・ブラケットCharles Brackett(1892‐1969)と脚本の共同執筆を始め,ミッチェル・ライゼン監督の《ミッドナイト》(1939),エルンスト・ルビッチ監督の《青髯八人目の妻》(1938),《ニノチカ》(1939),ハワード・ホークス監督の《教授と美女Ball of Fire》(1941)など,洗練された喜劇(男と女の地位の逆転などクレージーな主題のものが多かったので,〈スクリューボール・コメディ〉などと呼ばれた)の脚本を書いてハリウッド随一のコンビとうたわれた。42年からは製作者,監督,脚本家の三役を兼ねて,戦争スリラー《熱砂の秘密》(1943),〈フィルム・ノワール〉の最初の傑作として知られる犯罪メロドラマ《深夜の告白》(1944)をつくり,そしてそれにつづくアメリカ映画史上初めてアルコール中毒を正面切って描いたといわれる《失われた週末》(1945)でアカデミー作品・監督・脚本賞を受賞した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」