世界大百科事典(旧版)内のワタン党の言及
【エジプト】より
…イスマーイール・パシャの外債依存の欧化政策は,76年国家を破産させ,イギリス,フランス,ドイツ,オーストリアの財政管理が始まったが,これに対してアラービー運動とよばれる民族革命が起こった。発端は81年の青年将校の反乱であったが,アフマド・アラービー大佐を指導者とするワタン(祖国)党勢力は,立憲制の確立,議会の開設による外国支配の排除,総督の権限の制限を求め,ヨーロッパ支配に反発する名望家層やギリシア人高利貸に苦しむ農民大衆も立ち上がって,82年アフマド・アラービーを陸軍大臣とするワタン党政府が成立した。英仏をはじめとする列強は,この運動の民族革命的性格を危険視し介入を繰り返したが,インドに至るスエズ・ルートの確保を欲するイギリスは単独でこれに軍事干渉を行い,ついにはエジプト全土を占領,民族革命を挫折させた。…
【ムスタファー・カーミル】より
…エジプトの民族主義者。1891年カイロの法律学校を卒業してパリへ遊学。帰国後アラービー革命(アラービー運動)挫折で低迷する民族運動の再建に尽力した。1900年日刊紙《リワーLiwā’(旗)》を発刊し,占領を革命で打破せよとの論陣を張り,大衆の民族感情を鼓舞した。1906年デンシワーイ事件が占領下の恥辱をさらけだすや,国際的にイギリスによる占領糾弾のキャンペーンを展開,イスラム諸国やエジプトをめぐり,イギリスに対立するフランスやオスマン帝国との関係緊密化を図った。…
※「ワタン党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」