世界大百科事典(旧版)内のワリャーギの道の言及
【トベーリ公国】より
…13~15世紀の北東ロシアで,モスクワ公国に対抗した有力公国。都のトベーリTver’(ソ連時代はカリーニン)は,バルト海沿岸地域からノブゴロドを経てボルガ川に出る沿岸の要地で,バルト海から黒海へのいわゆる〈ワリャーギの道〉の経過点の一つであった。モスクワ公国と同様,ロシア中央部の肥沃地に位置し,外敵からも安全で,商工業,農業の適地としてキプチャク・ハーン国の支配下で急速に発展した。…
【ワリャーギ】より
… ワリャーギ出身のリューリクの子孫は,キエフ国家の統治者である公として政治の支配権を握り,また9~11世紀のルーシ諸公に雇用された親兵隊(ドルジーナ)や戦士としてルーシ軍団をも構成し,またバルト海沿岸地方から南のビザンティン帝国に至る古代通商路であった〈ワリャーグからギリシアへの道〉で商人として活発な取引に従い,古代ロシアの経済活動に重きをなした。7世紀以来のバルト海からボルガ川を通って中央アジアへ至る通商路と同じく,ノルマン人の到来以前から開かれていたという,バルト海から始まりイリメニ湖~ロバチ川~ドニエプル川を経由して黒海に出る,一名〈ワリャーギの道〉なるこの通商路に沿って古代ルーシの町が開けた。この両通商路を扼したワリャーギにとって,そこをうかがうハザール人やペチェネグ人などトルコ系遊牧民やモンゴル人との長期にわたる抗争の歴史を展開することとなる。…
※「ワリャーギの道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」