アブド・アッラフマーン(読み)あぶどあっらふまーん

世界大百科事典(旧版)内のアブド・アッラフマーンの言及

【トゥール・ポアティエの戦】より

…732年にフランク王国の宮宰カール・マルテルが,フランス西部,トゥールToursとポアティエPoitiersの間において,イスラム教徒の軍を撃退した戦闘。729年スペインの地方総督アブド・アッラフマーン‘Abd al‐Raḥmān al‐Ghāfiqī(?‐732)に率いられたイスラム軍は,ロンスボー(ロンセスバリェス)の峠を通ってピレネー山脈を越え,ガスコーニュ地方を襲い,さらにボルドーを占領したうえ,ガロンヌ川右岸でアキテーヌ公ウードの軍を粉砕した。この余勢を駆ってアブド・アッラフマーンは,キリスト教世界最大の聖地の一つである,トゥールのサン・マルタン修道院を目指して北上した。…

【アラウィー朝】より

…彼の死後,再び国内は混乱し,分裂状態になった。フランスのアルジェリア占領(1830)に対して,アブド・アッラフマーン‘Abd al‐Raḥmān(在位1822‐59)はアルジェリアを支援してフランスと戦ったが敗れ,次のスルタン,シディ・ムハンマドの治世(1859‐73)にはモロッコ北部をスペインに占領された。このころから,西欧列強の進出と利権をめぐる争いが強まり,ついに1912年のフェス条約でフランスの保護領となった。…

【アブド・アルアジーズ・ブン・サウード】より

…イブン・サウードIbn Sa‘ūdともよばれる。1889年ラシード家に敗れた父アブド・アッラフマーン‘Abd al‐Raḥmānと共にナジュドを追われた後,クウェートに亡命。1902年少数の手兵でリヤード奪還に成功,ワッハーブ派のサウード家の王国を再興した。…

※「アブド・アッラフマーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」