アントニヌスの城壁(読み)あんとにぬすのじょうへき

世界大百科事典(旧版)内のアントニヌスの城壁の言及

【アントニヌス・ピウス】より

…臣下にはきびしく接したが,裁判では寛大で,キリスト教徒への迫害をも緩和した。対外的にも和平を旨とし,ブリタニアではハドリアヌスの城壁の北方に新たに城壁を設けた(アントニヌスの城壁)。穏健・質実な姿勢は国民から尊崇され,彼と妻の大ファウスティナのためにローマのフォルムに神殿が建てられた。…

【ローマ】より

…東部ではさらにユダヤ人が反乱を起こし(116),それはすぐ鎮圧されたが,132‐135年,第2次ユダヤ戦争が起こり,反乱軍殲滅後破壊されたエルサレムのあとにローマ市民植民市アエリア・カピトリナが建設され,ユダヤ人はすべてエルサレムから追放された。ブリタニアではスコットランドが放棄され,国境に〈ハドリアヌスの壁〉(122‐127),次いでさらに前進した線に〈アントニヌスの城壁〉(142‐143)がつくられた。北部ではドナウ諸属州にマルコマンニ族,クアディ族らのゲルマン人が侵入し北イタリアにまで達した。…

※「アントニヌスの城壁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」